あなたがたは生きる

チア・シード

申命記8:1-10   


今日私が命じる戒めをすべて守り行えば、あなたがたは生きる。数を増し土地を得る云々については、今はとやかく言わないでおきます。「今日」がポイントです。また今度いつか、というわけではないのです。主の声を聞いて、直ちにその時に、という意味です。それは、他のことを優先させてはならない、ということなのです。
 
次に、主が命じた戒めであるといいます。人の定めた規則ではないということです。人の中から正しいと見なされて現れたものではないのです。どんなに尤もらしく見えたとしても、人から出たものは、人を汚すことはあっても、人を清めることはできません。だからこそこの後で、主の口から出るすべての言葉によって生きると告げられたのです。
 
換言すれば、主の口から出る言葉によってこそ、人は生きるものとなるのだということでしょう。アダムの鼻に命の息が吹き入れられたとき、人は生きる者となったことを思うと、神の言葉は命の霊であると理解できます。「戒め」は、厳しい規則に制限されない神の言葉一般として受け止めておくことにしましょう。愛の言葉もそこにありますから。
 
互いに愛し合うことも新しい戒めなのでした。愛せよ、というのは言葉の上では命令形ですが、命令されてできるものではないでしょう。愛は義務にもなりません。守り行えというからには、心も体もそれへ向かえということですし、心で受け容れるのみならず、実際に行動へと移すことが必要だと考えられていることになります。
 
神ならば言葉が即存在となりましょうが、人だとそうはいきません。そして、このことがあなたがたを生かすのだと言います。生物学的に生きているじゃないかと言われても、違うでしょう。主の言葉がなくても生命があるという考えとは距離を置きます。この「生きる」とは、今ここで永遠と呼ばれる命を与えられるということなのです。


Takapan
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