苦難のテスト

チア・シード

申命記8:1-   


エジプトを脱出して40年もの間、モーセは60万とも言われるイスラエルの民を率いて旅をしてきました。いよいよその旅の終わりにさしかかります。目的の地を間近にして、いま一度モーセが遺言の如くに語り、律法と神の恵みを立て続けに話し綴るという設定です。残念ながらモーセはその地を踏むことはありませんでした。でもモーセは価値ある仕事をしました。
 
しばしばこの語りは「今日」と告げますが、これが読者または聞く者にとっても、まさに今を意識するということで効果的です。つまり物語の中の「今日」であるばかりでなく、これらの言葉を受ける人々にとっての「そのとき」が問題となるのです。神の言葉は、いつ如何なる時でも「今」でなければなりません。だからまた、永遠でもあるのです。
 
これが生きる道である。産めよ増えよという神の言葉を携えて、その道は、土地の所有の報いへとつながります。後にそれは神の国とも呼ばれるものなのかもしれません。イエスの時、すでに民族はカナンの地に住んでいたので、土地の所有という目標では不十分になっていたのです。もう住んでいる見える土地でなく、見えないけれどもそこかしこにある、神の国。
 
この40年間、つまり十分な時間の中での経験を振り返り、モーセは主が民を苦しめたということから告げます。人生に苦難や悪があるのはどうしてか。人は問うことがあります。ヨブ記もその流れの中にあったと思います。神がいるなら何故、とは現代人もよく口にする疑問です。けれども、案外簡単にその答えはここに明らかにされていました。
 
主が苦しめたのだ、というのです。これはバビロン捕囚の歴史を踏まえての述懐でもあるはずですが、申命記はそうした民族の苦難を経験して、弱小なる民が神に選ばれて立ち上がり、大国に圧され潰されながらも滅亡・消失することがなく不死鳥のように甦るような有様だった背景には、戦いに負けても死ぬことのない神というエッセンスがあると考えられます。
 
普通どの民族の神々も、その民族のために勝利するしかない神です。戦いに負ければ、その神々が偽物だということになり、神は死んでしまいます。無用な空想の産物であることが露呈されるのです。しかし人間に禍すらもたらす聖書の神は、戦いに負けることも神の責任にはしない民族を育ててきました。この神の全能性は保持されるのです。
 
民は、悪と思われる事態を投げかけられて、テストされます。教師がわざと意地悪な質問を生徒にぶつけるかのように、苦しみも飢えも、神の意図のためにもたらされたのです。この論理は、マナを食べさせたのが、人はパンのみで生きるのではなく、主の言葉により生かされることを知らせ、体験させるためだということを教えます。
 
つまり、神はちゃんと必要なマナを与えつつ、マナだけではないと教えていることになります。苦しみや試みなども、生きるための重要なアイテムだということです。但し、それはあまりに意地悪であり、神はそんなに冷たい方なのだろうか、という疑問も昔からあります。それでも、申命記には確かにこう書かれています。神の与えた真実を思い起こしましょう。


Takapan
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