導かれる先にある幸せ

チア・シード

申命記8:11-20   


主を忘れるな。他の神々にひれ伏すようなことがあれば、あなたがたは滅びるのだ。歴史を目撃したが故の断言なのでしょうが、なんとも不気味です。イスラエルの経験を記したにしても、この言葉はその後もずっと生き続けていて、その不気味さを醸し出し続けています。具体的には、主が命じる戒めと法を守ること。言うなればそれだけのことです。
 
けれども、ここに刻まれた表現の一つひとつが、なんと生き生きと私たちに伝わってくることでしょう。苦しい時、人は神にすがるでしょう。でもそれが過ぎて生活が再び安定すると、この神を簡単に忘れてしまうのです。振り返ればこの神は、あなたを導き、辛い中を伴ってくれました。あるいは辛い道を通して、ここまで連れてきてくれました。
 
人にとり、それは苦しみであり、試みでありました。けれどもこれは、人を結果的に幸せにするためであった、と聖書は語ります。あなたの生活の潤いを、自分だけの手で獲得したものと思い違いをしてはなりません。背後に働く主の力のことを考えるべきなのです。そこに気づけ、と聖書は促します。私たちに力を与えたのも、この神であるのです。
 
かつての契約を、主は忘れはしません。だから、主をもし忘れたならば、あなたにはもう力はありません。それが滅びというものです。どれほどの民族が、そのようにして滅んでいったことでしょう。主の声に耳を傾けること、これを離れて何があるというのでしょう。こうして申命記は、ここからイスラエルの不義を並べることになります。
 
それなのに滅びなかったのは、私モーセの執り成しによるものだといいます。今やキリスト・イエスがこのモーセを、より完全な形で受け継いでいます。イエスの歩みの背後にこの申命記が流れているように思えてなりません。ここに響く「幸せ」という鍵が、イエスの言葉とその業の向こうに輝いているのが見えるでしょうか。


Takapan
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