方向性

チア・シード

申命記7:9-15   


主こそ神であり、真実の神である。これを知っているか。改めて問うことに意味があります。イエスは救いだ、と口先で言っていても実は知らない、ということはよくあることなのです。そして、恨む者には報いて滅ぼすという神の仕打ちを、一方では恐れすぎ、一方では全く無視してしまう、ということも、よく目にするところです。
 
今日、主は戒めと掟と法を守れと迫ります。人それぞれに、その都度「今日」であることを、思います。いま出会ったそのときのあなたに、主が声を発し、呼びかけるのです。これを守り行うなら、主は祝福します。病から守られ、その病はあなたを憎む者たちへともたらされる、と言います。なんともありがたいことですが、注意します。
 
守り行うなら、と言われているからです。条件のように見えます。救いそのものが、行いや条件達成で形式的に決められる、というのは、イエスの救いとは違うと吠える人がいることでしょう。けれども、旧約の表現では、たいへん分かりやすい指標を与えていると見るべきではないでしょうか。守り行うという基準は、確かに明白なのです。
 
主の報いをふんだんに受ける道が、このように分かりやすく与えられていることには、ひとつ素直に喜んでよいのではないかと思います。やがて新約の時代には、事柄の命令とくれば、よりよい教会生活を送るための道徳のようにもなります。「愛し合いなさい」という原理も命じられます。これは守っているのかどうか、判断が難しくありませんか。
 
この箇所の直前に、有名な「宝の民」の宣言がありました。小さな民なればこそ選ばれたという慰めですが、ここにも「あなたがたに対する主の愛のゆえに」という主のイニシアチブが刻まれていました。人間の側の都合や態度が決めるのではありませんでした。主が私たちを愛するということがまず先にあるからこそ、私たちは守り行おうとするのです。


Takapan
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