価なきものが宝とされた

チア・シード

申命記7:6-8   


宝の民とした。宝の民であった、とは言いません。宝の民とした、のです。どの民よりも弱小な民であったのを、宝の民としたのです。元来そんな恵みに与るような立場では、ありませんでした。ただ主の愛のゆえに、主がそのようにしたのです。また、先祖に対する約束の誓いの故に、主がそのようにしたのです。
 
具体的には、エジプト王の手から贖いだしたのだ、といいます。そこは奴隷の家でした。自由がありませんでした。自由であればそれでよし、というのとも違います。ひとは、全き自由をもつことに堪えられない場合があります。主人に仕えることがすべて悪いわけではありません。ただ、相応しくない主人であれば、避けることが望ましいでしょう。
 
イスラエルの民にとり、エジプトに仕えることは、よいことではありませんでした。むしろ主に仕えるべきです。民を宝として扱うこの神は、驚くべき方です。どうして天地万物を創造した神が、弱小イスラエル民族なんぞを偏愛するのでしょう。私たちには、その謎は解けないと思われます。研究も多くなされていますが、すべて仮説に過ぎません。
 
まして私のような凡人が、想像したにしても、解決することは不可能です。ここに続いて、主こそ真実の神であることを知らねばならない、とも言っています。全人格を以て体験しなくてはならない、ということです。イエス・キリストを通してこの神と出会った者こそがキリスト者であるというのなら、私たちもイスラエルの出来事を経験できるでしょう。
 
もちろん、旧約聖書に書かれた、イスラエルの民の経験と全く同じというわけにはゆきません。でも、イエスは生まれてすぐにエジプトに逃れる経験をしています。キリスト者も、よくない主人に仕え、自由のない立場に身を置いていた経験があったことでしょうから、比喩的なエジプトからの脱出を思い起こす人も多いだろうと思います。
 
また、教会自体がおかしくなることもあります。他に何を頼ればよいかと悩みます。そのときには、この世にいますキリストと出会うために、この世に避難することも、十分ありうると私は考えます。ただ、その世にいつまでも留まっていることは望ましくありません。主の愛は変わらず、いまもなお宝の民とする思いが消えることはありません。


Takapan
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