生き生きと次へ伝えよう

チア・シード

申命記6:1-9   


長く生きるために、この戒めがあるのだそうです。生きている限り、戒めを守れ、と。いや、生きているからこそ、戒めが守れるのでしょう、などと理屈を言うのはやめておきましょう。あなたがたは大いに増える、そして幸せになる。そういう約束が眩しい。至って単純に、幸せの方程式が告げられ、すべてがこの掟に基づいていると宣言されています。
 
これでよかったのでしょうか。イエスが根柢に置いていた幸せの原理とは、これのことだったのでしょうか。そしてここには「聞け、イスラエルよ」との呼びかけが入ります。十戒は、確かに見事に統一された律法でした。しかしここには、愛の律法があります。唯一の主だとする点は十戒と変わりませんが、主を愛しなさいという迫り方は独自です。
 
いまここでは、それが人への愛に発展することはありません。ただこの言葉を心に留めよ、と言っています。心に留めても、私たちは実は少しも気にしないということがあります。なんと薄情なのでしょう。私たちはそれでも、自分はいつでも神を信じ、愛しているのだと豪語します。錯覚どころの話ではありません。完全に欺いています。
 
マリアが、イエスの少年の時のこと、また宮参りのことを、心に留めていたというのは、並大抵のことではないのだと痛感します。ここで「聞け、イスラエルよ」と話しかける中で、心に留めよ、と言っているのですから、これは軽い言葉ではないし、社交辞令などではありません。これは、子どもたちへ、命懸けで伝えなければならないことなのです。
 
家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているとこも、唱えるべし、と命じられています。これらの言葉を書いたものを手に結びつけ、家の入口にも町の門にも書き記せ、と迫ります。かなり具体的に指摘しているのは、テント生活ではなく、固定的な住まいを前提としているはずですが、それにしても、詳細です。
 
私たちは、これをどう見たらよいでしょうか。子どもたちへ、伝えるべきだと教えられています。キリスト者の大人たちは、子どもたちへどう伝えているでしょうか。教義的、強圧的であってはなりません。愛が必要です。自分がどう生きるか、も当然大切ですけれども、次の世代に生き生きとこの命の福音を伝えることが、喫緊の課題となっています。


Takapan
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