まっすぐに言葉を聞きたい

チア・シード

申命記6:1-9   


聞け、イスラエルよ。この叫び声が聞こえるか。聞こうとしているか。まさに主は、あなたに向けて呼びかけています。さあ聞け、と。神は唯一の主です。十戒を背負っていることは明らかです。主を愛し、その言葉を心に留めよ。それから子孫へ告げよ。繰り返し教えよ。一日中、神の言葉を唱えよ。言葉を身につけ、家にも刻み記し掲げよ。
 
申命記は、律法のエッセンスを繰り返し民に伝えるものとしていますが、この呼びかけ迫る勢いにかけてはまことに鋭く、力強いものがあります。全く逃げ場がないように押し寄せてきます。だからこそまた、味わう価値があるのです。あらゆる教えについて「聞け」と迫ってくるように思えないでしょうか。
 
ところで、これに先立つ箇所で、この戒めあるいは掟と法は、やがて所有するはずの約束の地で行うことになっているものだとしています。すでに定着して住んでいる視点から記しているためにこのような言い方をしているのだろうとは想像に難くありませんが、それは律法全体にわたっても言えるものでしょう。
 
民族の歴史を基礎づけるにあたり、こうして過去の出来事を描くことは、世界中どの民族も集団も、やっていることだと思われます。しかし、このイスラエルの文書は、実に生々しいように見えます。確かに、今ここで呼びかけられている思いに満たされませんか。生きる限り主を畏れよ。子孫も同じ土俵に載せるところがまた、大胆でもあります。
 
律法を守り行い、長く生きよ、とも言います。地上で長生きをし、幸せになるためだと旧約聖書は素朴に語っています。これは実は永遠の命のことを暗示しているし、つながるのだ、などと解釈することも、もしかするとできるかもしれませんが、いやいや、それは牽強付会もいいところだ、と言われるのも仕方がないでしょう。
 
民族が約束の地で増えるという祝福が、世界の終わりの神の都と永遠の命へまでつながることが説明できるのか。やはり難しいことでしょう。でも、私は申命記が好きです。イスラエルの歴史の冒頭を刻むだけでなく、キリストにある者たちのための戒めとしても、背筋をぴんとさせるものがあるからです。ぶれないからです。まっすぐに聞きたいものです。


Takapan
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