幸せの律法

チア・シード

申命記6:16-25   


主が私たちの間におられるのかどうか(出エジプト17:7)、と主を試したことから「マサ」と呼ばれた土地の歴史を思い起こさせます。これを戒めとせよ。主の目に適う正しいことを行うならば、あなたは幸せになる。主はそのように従って生きることで、主を畏れ、今日あるように、いつも幸せに生きるようにしてくださったのです。
 
申命記は、この「幸せ」を時折口にします。幸せとは何か。難しい問いです。主の律法に従うことが幸せである、と言っているのには違いありません。モーセの口を借りているとはいえ、ヨシヤの宗教改革の時代であろう頃の視点が、ついこぼれてしまうのでしょう。このとき、民と社会は、確かに幸せを覚えていたのでしょう。押さえておきましょう。
 
あなたの子が、その掟や法について尋ねたならば、何と答えるべきか。「あなたの子にこう答えなさい」というからには、これはQ&Aのモデルとなっていることになります。そして、子孫一般を指しているのであり、結局のところは聖書の伝統を受け継ぐ後世の人全体に教える事柄が寄せてあることになります。いま聞いているのは私たちです。
 
その故か、詩編を通じてこの出エジプトに言及することが多く、預言者の書でもそうです。これはイスラエル民族のアイデンティティとなってゆくのです。それが、幸せなことでありました。この誇りに基づいて戒めを守り行うことは、人々にとっての義となることだろう、と言っています。義とは正しさであり、神により救われるということでもあります。
 
キリスト以降は、これが律法の義に過ぎない理解をするケースが退けられるようになります。しかしイエスの示した神の愛に加えて、このような人間の「義」が明確に示されている点は見ておくべきでしょう。問題はその「守り行う」ところにあります。イエスは、別のアングルから、これを忠実に守り行っていたのだ、とも言えるでしょう。


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