私が問うていると自覚するなら

チア・シード

申命記6:16-25   


将来あなたの子が、掟と法は何のためなのか、と問うたなら、こう答えよ。申命記が命じます。子とは誰のことでしょうか。私が私の子に教えるということでしょうか。確かにそうでしょう。それと共に、私そのものがこの子であるのではないでしょうか。私、そして私たちがいま問うています。聖書に対して疑問をもち、目的を問うています。
 
それとも、世の人々がいまこの時代の中で、聖書について問うているのかもしれません。哲学的に、あるいは単に時代の危機の中で、焦って聖書に何かを問いかけているのかもしれません。宗教の争いの中で、キリスト教は何様なのだと怒っている人もいるでしょう。地上で困難を思い、将来に不安を抱くとき、神という存在が気になるのかもしれません。
 
やはり、問わねばなりません。何のためか、と。その答えは、ここにあるようにエジプトに限定するならば、イスラエル民族の昔話に留まるだけです。でもこれをメタファーとして捉えるとき、実に生き生きと私たち、そしてこの私へと重なってくる答えとなるでしょう。私たちにとり、抜け出てきたエジプトとは何でしょう。何から守られたでしょうか。
 
ただ、すべてをいま目に見えるアレゴリーで解決する誘惑に駆られるけれども、それは避けた方が良さそうです。何でも自分に理解できるように説明してしまうことは、罠です。分かった気になるのが危険であるほかに、神を知り尽くして神の上に立とうとすることにもなりかねないからです。体の良い説明で安心する癖が、ひとにはあります。
 
申命記は、私たちの幸せを目的をしているような書き方を時折しています。否、目的とするのはよろしくありません。それは結果でしょう。人の外から来るものであり、恵みです。しもべは主人に仕えるしかありません。これに反するとき、主を試みたということになるのでしょう。荒野で試みたことがまず釘を刺されていましたけれども。
 
申命記の言葉の通り、感じるままに行動すればよいのではありません。ダビデはどうだったでしょうか。ただ主を見上げ、主に結びつき、主との関係の中に保たれているばかりであるその生き方。このときダビデは限りない祝福を受けました。私たちもまた、そのような祝福の中に招かれています。祝福を受けるように定められているのです。
 
戒めを守り、行おうというのは、機械のようにコマンドに従うということではありません。私たちはそれを拒むこともできるし、いやいやながら従う感情も持ち合わせています。しかし、従うことは義とされることだ、と聖書は告げます。人間のもつイメージで神のことが分かったふりをするよりも、どっぷりとこの関係の中に生きてみるのはどうでしょう。


Takapan
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