忘れることなかれ

チア・シード

申命記6:10-15   


あなたが築いたのではない町、その財もあなたが生んだものではないはずだ。そう記者は迫ります。それを言われれば、もう何も言えないでしょう。所与のものはすべて、私がこの手でどうこうしたものではないからです。私は生まれ落ちたときから、すでにあったものに囲まれたのだし、他者の目に晒されて置かれてきたにすぎません。
 
なんでも自分の力で生み出して、自分の足で立ち、歩んできたかのような顔をしている近代人は、おおいに省みるべきです。安息日規定でもそうでしたが、申命記記者は、エジプトから導き出された意識がひじょうに高くなっています。かつては奴隷状態であったことが強調されると、そこから導かれた過程について考えねばならないことが分かります。
 
イスラエルの民が導かれたということの中に、近代人は恐らく「自由を得た」ということを理解するでしょう。エジプトでは、王の命令に否応なく従うしかありませんでした。そこから脱け出したイスラエルの民は、改めて律法を与えられました。まるで、律法が奴隷にさせるようなイメージを私たちはもつかもしれません。でも、違うのです。
 
それは、自ら従う自由をもっています。主を畏れ、主に従うということは、自由の出来事なのです。誓うなら、この主の名によるのでなければなりません。出来事も行為も、主との関係の中において生じるのです。主とのつながりということは、他の民の神々を排することを意味します。それを示すために、妬む神という表現がとられたのだと思います。
 
妬むとは、いかにも人間的な感情のようですが、熱い思いをもつことを意味します。向き合った関係でありたいのに、目を逸らしてはならないのです。妬みは怒りへと進展しかねません。このことを、努々忘れてはいけません。自由を与えた主を忘れるなら、再び奴隷の身に戻ります。自由に対する勘違いが、その道を招いてしまうのです。


Takapan
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