乳と蜜の流れる地の約束

チア・シード

申命記6:1-3   


右にも左にも逸れず、この道をまっすぐに進め。直前の箇所でこれが命じられていました。そうすれば、命と幸いを得ること、土地に長く住み、生きることが約束されるのです。続くこの箇所では、これが繰り返されるようなものですが、「そうすれば」の後に、幸いを得ること、乳と蜜の流れる土地で増えることが約束されています。
 
読み慣れてくると何とも思わなくなりますが、幾度か出てくる「乳と蜜」とは一体何でしょうか。出エジプトを果たしたイスラエルの民に、カナンの地を与えると約束したときに神が見せる幻が、この「乳と蜜が流れる地」という表現です。文字通り流れるとは考えにくく、メタファーであることは間違いありません。
 
それにしても私たちは、出エジプトの民がエジプトの豊な作物や食生活に戻りたいと文句ばかり言っていた人々を、安易に責めすぎるような気がします。どんなに苛酷な事態であったことでしょう。物資は不足し、いつ敵に襲われるか心配です。あと一年歩けば目的地に着くなどという保証はどこにもありません。見通しすらありません。信仰がなかったなどとかの人々のことを私たちが批判することはできないと思うのです。
 
私たちが明るく口にする、希望を胸に歩むなどというのは、何か計算ができてのことに違いありません。しかし彼らは、あるいはモーセは、乳と蜜を脳裏に掲げて進みます。乳は、豊な家畜の存在を思わせます。動物たちもすでに旅には同行していたはずですが、限られた中での存在です。一人あたりの割当ては頼りなかったことでしょう。
 
流れてくるというのは、次から次へと尽きることなく与えられ続けるということです。自分で用意したり作り出したりするのではありません。いわば恵みとして、自分が何もしないのに与えられてくるものこそが、私たちの目の前を流れて行きます。動物たちとて、いつしかそれほどにも与えられるのだという信仰を理解したいものです。
 
では蜜とは何でしょうか。養蜂は昔からあったと言われています。しかしカナンの地での養蜂はどうでしょう。天然の甘味料として貴重であったかもしれませんが、蜂蜜と言えば、サムソンが殺した獅子に群がった蜂による蜜を思い出します。あまりそれもぴんときません。むしろ、果物の蜜ではないでしょうか。つまり、農作物ができるということです。これが荒野の旅には難しかったけれども、カナンの地での夢見る生活にぴったりの恵みだと思います。
 
牧畜と農業。カナンの地に定着してこそ可能になる、安定した食糧調達の道です。食糧の安定性は、荒野を旅する民にとり夢でありました。欠乏する生活に注がれるかすかな希望が、律法を忠実に守り行うことへの報酬であったとするならばまだ理解できると思います。こうした彼らの置かれた情況と心理に、私たちはどこまで心を寄り添えることができるでしょうか。そして、私たちの乳と蜜への渇望の有無を問われるような気がするのです。


Takapan
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