神ならぬものを排除するためではないのか

チア・シード

申命記5:6-11   


出エジプト記の十戒に加えて、申命記でも十戒が繰り返されます。モーセが再びまとめあげたという設定です。プロテスタントがカウントする、最初の三つの戒を取り上げます。主の他に神があってはならない。彫像を造ってはならない。主の名を空しく唱えてはならない。神と人との関係がどうあるべきかの根本を押さえるものとなります。
 
日本語で「神」という訳でよかったか、いまなお議論されます。日本の風土における「神」という意味合いがどこかで重なってくる可能性があるからです。「主」という発明は一つの賢明な措置となりましたが、こうした文化的背景の中にある概念は、使う言葉の制約をどうしても受けてしまいます。これは避けられない問題です。
 
私の言う「赤」が、あなたの「赤」と同一である保証がとりにくいのはよく知られていますが、さらに深刻なことに、私の「神」があなたの「神」と等しいことは益々期待できないのです。ましてこの聖書全体で問われている、神と人、神と自分との関係が、わずか数節の十戒の中で抽象できるようにはとても思えません。
 
神が唯一であるということは、他に神があってそれを選ぶな、というような意味だとは、私は考えたくないと思っています。要するに人は、神ならぬものを、もはや「神」とすら呼ばない形で、神とする性向があるということを指摘していると思うのです。人が造った神、人が考え出した神に仕えているということが、ありがちなのです。
 
そこに、人が人を支配する構図があります。人が造った神を、多くの人々が神と認めるようになってゆくとき、その初めの人が支配する権力ができたことになります。それは何らかの「形」をとることが多々あります。時に金であり、時に国家にもなります。何かしらのシンボルがその「形」となって、支配のための手段となりうるわけです。
 
金が大切だと口々に言う。国や王の名を連呼する。イデオロギーを絶対の真理として叫ぶ。こうして洗脳のように浸透させると、各人は自分が自由に自律的に選んだものと錯覚し、その支配構図の中で自ら奴隷になるのです。人間の立てる、いかにもの理想も、人の立てた神ならぬものに過ぎません。これを徹底的に排除する十戒だと戒めたいと思います。


Takapan
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