私たちは何に仕えているのか

チア・シード

申命記5:6-10   


十戒といえば出エジプト記20章と覚えているのがキリスト者というものです。しかし、律法を改めて記すという主旨でまとめられた申命記にも、十戒はほぼ同じ形で掲載されています。特にこの最初のほうの戒めは、出エジプト記のままに再録されています。ほかに神があってはならないこと、いかなる像も造ってはならないこと、カトリックはこれらを一つとします。
 
ここで訳は「あなた」としており、「あなたがた」となってはいません。イスラエルの民をひとつのように扱っている、というのかもしれませんが、これは今の時代、個々の立場でこれらの言葉を受け止めることが必要であるようにも示唆されるかと思います。つまり、誰か他人への命令ではなく、まさにこの私への命令である、と襟を正されるのです。
 
神と私は個人的に出会っています。私はひとり、神の前に立たされています。そして、神の側からの言い回しではありますが、「我と汝」の関係の中にあると言えます。これが十戒の重要な前提です。これなしに、昔の文献を眺めるように十戒を見ているようでは、少なくとも信仰者とは呼べません。きつい言い方ですが、これは確かです。
 
他の神々を造るな。特に、彫り刻むなということが挙げられています。人間が如何に刻んだ像に心惹かれてしまうのかを教えてくれます。今なら、しかし絵画を拝むのもあるでしょう。当時は絵よりも像が基本だったのかもしれません。だから後に絵を拝んでも「偶像崇拝」のように呼ぶようになった、形造るほうが基本の文化背景があるとも考えられます。
 
つまり偶像という語で、神ならざるものを拝み仕えることをすべて含むように表現したと理解できます。だからむしろ「仕えてはならない」のほうがメインであると捉えましょう。私たちは、神でないものに仕えることを平気でやります。金や名誉を第一として神を棄てもするし、そのすり替えは実に巧妙になされるので、自分は大丈夫とはなかなか言えません。
 
問題は、自分を神とすることです。自分の腹に仕えることへの戒めが新約聖書にも現れます。己れを第一とし、己れを神とするなどありうるのか、と思われるかもしれませんが、近現代では特にこれが始末に負えない状態で蔓延しています。自分の中に生まれた思想を聖書が裏打ちしていると考えたとき、私たちの腹は喜び、自分は正しいのだと小躍りするでしょう。
 
そして自分のその思いつきが、聖書の真理だと思い込むようになり、それに反する他人の考えをバカ呼ばわりし、あまつさえ他人を見下し悪として断罪するようになります。SNSで実によく見かけます。イエスは、これをこそ破壊しようとしたのではなかったのでしょうか。そこには愛がないのだ、と身を以て示したのではなかったのでしょうか。


Takapan
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