十戒の謎と火の中からの声

チア・シード

申命記5:1-21   


私には、聖書のことなどまるで分からないことだらけなのですが、その中でも全く見えてこないものがあります。モーセが十戒を授けられる場面です。出エジプト記で十戒を受けるに至る過程が分からないのです。モーセと民がどういう行動をとり、どういう経過があってどのように受けたのか、全く頭に画が浮かんでこないのです。
 
申命記には、その十戒の焼き直しが記されていますが、要点だけのダイジェストになっています。改めてモーセの記事を編集しているため、経緯は省略されており、とても分かりやすくなっています。実は十戒の内容にも、出エジプト記とは異なる点があります。項目としては同じでしょうが、安息日の背景が大きく異なっています。
 
出エジプト記では創世記の創造の出来事がメインですが、申命記では出エジプト記の出来事を挙げています。また、父母を敬う件について、「主が命じられたとおりに」と、申命記のみが挟んでいることも目につきます。これらは、申命記がかつての出エジプト記を踏まえていることが、当然のことのように表しているように見えます。
 
ところで、同様に振り返るこちらでは、モーセがホレブの山へ上り下りする詳細にはもう触れずに、モーセが人々を前に戒めを伝えるところを示すに留まっています。まるで、他の律法をただ告げているかのようです。「主は、あなたがたと山で、火の中から顔と顔とを合わせて語られた」というように、今回は「火」を前面に持ち出しました。
 
確かに出エジプト記のときも、「主が火の中を通って、山の上に降り立たれた」(19:18)とし、雷鳴で神が堪えています。また、「七日目に主が雲の中からモーセに呼びかけられた」(24:46)とき、「主の栄光は、イスラエルの人々の目には山の頂を焼く火のように見えた」(24:17)というように表現されていました。確かに「火」がそこにありました。
 
申命記では、このとき「あなたは御言葉を火の中から聞いた」(4:36)とか、「主は、その栄光と偉大さを示され、私たちは火の中から御声を聞きました」(5:24)とかいうように記されています。モーセが呼びかける一般の人々は、「火を前にして恐れ、山に登らなかった」ことを心に留めます。モーセは燃える柴の中から、最初に主の言葉を聞きました。


Takapan
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