説教としての十戒

チア・シード

申命記5:1-6   


申命記記者は、祈ったはずです。十戒を書かねばならないとなったが、そこへどう導きをつけようか。どんな導入をつけると効果的だろうか、というようなことは、物書きならば誰でも悩むはずです。出エジプト記のように、起こった事件を順序よく記録していく形をとることができない文書でしたから、別の形をとらないといけなくなったのです。
 
モーセが手にした十戒の板について、その由来を改めて民に語るようにしたようです。あなたがたと顔と顔を合わせて語った、とありますが、十戒自体がそうであったとは思えません。しかしモーセが、主と民との間に立って主の言葉を語ったのだ、という点は押さえています。民は、山に登ってはいないのです。モーセが十の言葉を語り聞かせました。
 
判然とはしませんが、どうやらモーセが注解をしたというスタイルを基本としているようです。モーセの告げる言葉は、神の言葉なのです。それを耳にする者は、神が語ったものとしてそれを受け取ることになるのです。その言葉が、ここから現在に至るまでのイスラエルの歴史となっています。神の言葉は、事実出来事となったのでした。
 
これは、礼拝の説教のあり方です。主は言われる、という宣言から、権威をもって語るもの。そしてそれは空しい人の言葉とは違い、現実のものとなるのです。「私は主」とモーセが言い始めた時、それは確かに神の言葉として語られたということなのです。会衆はこれを以て主と顔を合わせていたことになって然るべきなわけです。
 
火は聖霊のもたらすもので、私たちの心の中には、主の言葉が届いた時、これが燃え上がらなければなりません。ホレブでのこの契約を思い起こしていたとしても、それはただの先祖の物語ということではありません。昔話でもないし、伝説でもありません。まさに私たちと、今ここで生きている私たちと、そして私と、契約は結ばれたのです。


Takapan
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