十戒の後半

チア・シード

申命記5:16-22   


十戒の第五からは、神に対してでなく、人に対するものであると説明されることがあります。一方、十を半分にして五つずつをまとめるためには、第五までを前半とすべきだという考え方もあります。確かに、第六からは、非常にシンプルになっています。また、これらは「〜してはならない」で統一されています。もちろん、前半にもありますが。
 
もし二つに分けるとすると、父母を敬うことは、神の側のことになるのでしょうか。神と人との間の橋渡しとなりうることは分かります。でも父母が神のサイドとするのには抵抗があります。但し、この十戒を九つと数えることができるという考え方もありえます。カトリックは第二を第一の一部としました。共同の訳ではこれらを段落分けしていません。
 
カトリックは、第十を二つに分けて、十戒としています。但しそれは段落分けしていません。共同の訳は、どちらの顔も立てる形をとり、結果的に九つのように見せることになってしまいました。でも、出エジプト記34:28では、はっきりと「十の言葉(戒め)」とカウントしているので、ここにあるのは九つだ、と主張するのは適切ではありません。
 
私たちは、やはりこの父母を敬う戒めの扱いに困ります。九なら、これが中央にきて、中央を重んじるレトリックに沿って説明ができるのですが、十だとそうはいきません。後半は自分の向き合う相手に対する自分の行為に関する規定ですが、父母はそうではありません。後半の五つとは、やはり同類だとする勇気がありません。
 
人それぞれに、自分を生んだ神と父母とに対して、思いを馳せてみては如何でしょうか。中には、親から酷い扱いを受けた人もいるでしょうから、無理にとは申しません。あなたを育んだ人がいますか。敬愛できるそうした人がいるといいですね。あなたは長く生き、幸いを得るのだと約束されています。これもまた、第五だけの特徴となっています。
 
最後に、後半の五つに目を向けましょう。イスラエルの偉大な王ダビデが、悉く犯した罪のリストに見えてきませんか。英雄ダビデは、これらをすべて犯しているのです。たとえ殺すなというのは同胞のことだと弁解しても、ウリヤは部下であり、その妻を巻き込み、その他戦いの場でいろいろやっています。ダビデは十戒の前半で素晴らしかったのです。


Takapan
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