安息日は救いに基づくのか

チア・シード

申命記5:12-15   


十戒は出エジプト記が元ですが、モーセが後から語り直したという設定の申命記もあります。それらは殆ど同じで、家畜が牛やろばと具体的に書かれているくらいの違いしかないように見えますが、今回の箇所にだけは大きく違うところがあります。安息日規定などと言われる、ユダヤ人の生活を大きく掴み、いまなお守られている戒めです。
 
まず、「主が命じられたとおりに」が出エジプト記にはありません。申命記という場面からすれば、かつて出エジプト記にあったのを思い起こせという意味なのかもしれません。従って、これも違いのうちに入れることはできません。違うのは15節です。かつてエジプトで奴隷だったが、神が導き出されたことを、思い起こせ、これが理由だ、と。
 
出エジプト記には、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(20:11)という理由があるだけです。全く根拠が違います。申命記は「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(14)とありますが、根拠がないのです。
 
奴隷であったエジプト時代を思い起こすために、安息日を守れ、というここでの論理が、私にはどうも結びつきません。理由になっていないのです。へプライ語で「七」を「シェヴァ」のように言い、「安息日」を「シャバット」と言うのが、これらをつなぐ言葉の問題である、という解釈もあるそうですから、もはや論理ではありません。
 
出エジプト記では、創造が背景にありました。申命記では、イスラエルの民の救いが中心にあります。明らかに、出エジプト記の十戒を見てそれを申命記記者は写しているはずなのですが、創造論は一切残さず、すべてを救済論だけで説明したことになります。聖書の神を考えるときの二つの大きな捉え方が、入れ替わる形で現われたように見えます。
 
申命記の立場からは、休んだということはもはや言うまでもない、という前提めいて捉えられていたのでしょうか。謎は謎です。ただ、イエスの救いを与えられた私は、奴隷状態から解放されたが故に休むのだ、と受け取ることも可能です。体験的に分かります。救われた者だけがしみじみと噛みしめる、この休みの意義というものがあるのです。


Takapan
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