十でない戒め

チア・シード

申命記5:1-21   


申命記はよく考えられ、編集された書です。モーセに対して再び授けたというふれこみですが、ここから律法をまとめる、という前書きが4章末で掲げられました。構成上も分かりやすくなっています。モーセがイスラエルのすべての人を集め呼びかけたという壮大な画が浮かんできますが、文字通りにすべてかどうかは分かりません。
 
それでも、全イスラエルに対する宣言であったことは確かです。捕囚期にまとめられた可能性の高い申命記ですが、捕囚の地とユダヤの地と分断されていたとしても、全民族へ告げる思想だと見なすことが求められているのです。今日語る掟と法を学び守り行えというとき、その「今日」はいまの私たちにとっての今日でもあってよいわけです。
 
顔と顔を合わせて主は語ったと言っています。それは火の中であったため、人々は恐れて山に登れず、モーセが神と人との間に立ち、主の言葉をイスラエルの民に告げたというのです。このような仲保者は、後にイエス・キリストが役割を担うこととなりました。神の前に出られる身分でない私たちのため、キリストがとりなしをしたのです。
 
そう、とりなしは命を懸けたもの、いえ、命を棄てたものでした。イエスが間に立ち、人と神とをつないでくれたのです。そしてここで出エジプト記20章にあった十の戒めを再現します。この根幹たる律法が、すべての律法の規定にあり、根拠・原則となっていることは言うまでもありません。
 
しかし申命記の十戒は、聖書協会共同訳で、偶像規定の第二戒が段落分けされていません。そのため九つの戒めのように見えます。カトリックがこれを別カウントしないことに合わせているかのようですが、面白いことにフランシスコ会訳はちゃんと段落を分けています。但し、そちらでも出エジプト記では分けていないのですが。
 
聖書協会共同訳はどちらの十戒もここを分けておらず、カトリックへの配慮かと勘ぐりたくなります。新共同訳では、彫像の項目はどちらも別段落としていましたから、聖書協会共同訳が新たにやっていることです。その他、安息日を創造の業で説く出エジプト記と、出エジプトの出来事を上乗せする申命記の違いも目立ちます。
 
父母の項に申命記は「幸せ」を入れ、最後に「家・畑」と定住を思わせる語が入っている点も、申命記の十戒の特色となっています。殺すなと命じつつ他国人は殺せと命じるなど、言葉の意味はその都度よく検討しなければなりません。盗むなというのも、物より人のことだと解することもできるのですから。


Takapan
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