救いはいまも

チア・シード

申命記4:32-40   


この方のほかに神はない。これを示され、体験した。主の声、火を知った。そして主の手が君たちを導いたのではなかったか。そこで今日――主こそ神であることを、心に刻め。子孫の幸せはそこにかかっているのだ。モーセはここに希望を与えておきます。リーダーたるもの、ハッタリではない希望をメンバーに与えることが必要です。
 
時にそれが看板倒れであったとしても構いません。互いに励まされ、立ち上がり、歩み始めることができるような言葉が欲しい。自分のためにも欲しいし、皆も望んでいます。一方で、従わない場合には、と脅しもかけたことがありました。神が呼びかけるのは二つの道なのだ、と。それがここでは、一本道のように示されているように見えます。
 
先立つはるか昔、初めの時代を持ち出して何を知るのかというと、神から語られて教えられるという歴史でした。神は私たちに、様々な仕方でメッセージを送ります。現にこうして導いてきたのです。モーセが示すのは、出エジプトの過程でした。申命記を読む後世のイスラエルの民に向けてのメッセージでもあったことと思います。
 
当時現場の民は、やがて砂地の土地で死に絶えていくのですが、いまこれを聞く者はそこまでの緊迫感はありません。いま私たちがモーセの言葉としてこれを聞くときはなおさら、モーセが切迫した情況で民に語ったこの場面を、臨場感を伴って聞くというのは難しいことでしょう。それでも、何か味わえるなら、と期待します。
 
神から人類へのメッセージたるものは、どのような形ででも、伝わるものであるべきです。伝わらなければならないし、ひとを生かすべき働くものであるはずです。かつての歴史の中でしか効果がない、という歴史的遺産のままにしておきたい私たちの願望があるかもしれませんが、興味の対象であるだけの昔話だというわけにはゆかないものなのです。
 
まして、それが史実でないだろうからただの伝説だよ、と一蹴するようだと、言葉の命を踏みにじることになります。どこにどのように伝わっても、あのエリシャの骨のようにひとを生かし命を吹きこむものであるはずなのです。だからこそイエスの十字架は、いまも命を与えるために、そこに確かにあるのです。


Takapan
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