根拠としての神からの問い

チア・シード

申命記4:32-40   


あったであろうか。反語の問いが続く箇所です。問いかけられる私たちは、それに対して応えなければなりません。たとえノーと応える余地が全くなかったとしても、それは私の側の、私の責任に基づく宣言となります。神の問いは、するはずである、という響きの命令形もありますが、ここでは問われているのです。私たちはこの問いを受けているでしょうか。
 
かつて私が存在する遙か以前の時代に遡ってみるがいい、と主は構えます。これほど大いなることが他にあったか。そんな話を聞いたことがあるのか。その口はモーセです。けれどもモーセを通して主が私たちに問うのです。ほかにこのような神はいないと私たちは改めて知りますが、知るとは頭だけの知識ではなく、身を以て味わったこと、体験を意味します。
 
よく見ると、「あなた」と単数で突きつけている点が目立ちます。神経質に区別する必要はないとよく言われます。イスラエルの民はいま一つのまとまったものとして扱われているのかもしれません。が、それは同時に、他人任せではなく一人ひとりの人格に真正面から問いかけているように私には思えます。いや、そう感じなければならない、とも。
 
先祖に対して主が行ったことが、同時にいまここにいる私へのこととして迫ってきます。私たちはそう常に理解しているでしょうか。ここでは主こそ神であること、他に神はいないということが繰り返され、徹底されます。まず神が先行する、聖書はこのルールを決して崩しません。その点では全く揺るぎなく、神が主体となるところからスタートします。
 
ともすれば近代人は、まず自己の存在から世界観を開き、次に自己が神をどう定めるかを考え、神など必要でないなどという思考方向をとります。しかし聖書は、神が私の存在根拠です。祖先の時代をも支配していたし、私の存在を根底から主の支配の下に形作り、支え、包みます。すでに神が与えていたという原理的事実が私の根底にあるのです。
 
子にとり、親がすべてを用意し、担い与えていたように、神はイスラエルの民、そして私を、いわば創造したわけであり、このことを心に留めておかなければなりません。掟と戒めを守れというのはかんじがらめの法に縛られよというのではないでしょう。幸せになる、と申命記はよく告げます。幸せとは長く生きることです。イエスはこれを永遠と呼びました。


Takapan
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