かつての未来は今の今

チア・シード

申命記4:25-31   


主は焼き尽くす火、妬む神。新共同訳だと「熱情の神」となっています。他の偶像を神とすることへの警告をみっちりと行っています。申命記というモーセの口を借りた文書ですが、後の世の立場から綴っているため、子や孫のことを特筆する必要が出てきます。つまり、イスラエルの民はまさに今堕落して主を怒らせているのです。
 
そういう、後世の現状が、モーセのこの旅のスタートともなりました。カナンの地に入るイスラエルが滅びる、そして各地へ散らされる。このようにモーセは預言していますが、もちろん申命記記者の見る現状を表していることになります。但し、わずかな者が、つまり主を信じる民としての者たちが生き残る、というところまで述べています。
 
偶像を信ずる人々の間で生きていかなくてはならないことも周知のことです。ダニエル書の中にも、こうした様子が描かれていたので、イスラエルにとりこうした情景は珍しくないとも言えるでしょう。イスラエルのアイデンティティの危機がここにある、と見るべきなのかもしれません。この危機こそが、実はこの民族をイスラエルたらしめたのです。
 
主を求める。つまり、心を尽くし魂を尽くして主を求めるならば、主を見出すのだ。この教えが、希望をもたらします。申命記をメッセージとして、民族の統一と復興を図っているとも理解できます。歴史は民族に苦悩を与えました。事実それは起こったのです。しかしイスラエルは終わりの日というものも、同時に知っています。
 
終わりの日は、確かに将来、先のことですが、今すでにここにもあって、それを握って生きている、それがイスラエルの得た信仰なのでした。皆、主に立ち帰り、主の声を聞くのです。すると聞き従うことができます。主はその時点、そのところから、あなたを導きます。もう見捨てないし、滅ぼすことも、もうない、と告げながら。
 
この申命記が伝える契約を、神は遂行するでしょう。かつての先祖の物語を再構成しただけではなく、モーセの時にはまだ来ていない未来、それが記者たちの今でした。かつての未来を、記者は今として生きていました。そして記者にとり未来だった時を、私たちは今として生きています。主へとシフトする幸福な未来を生み出す希望が、ここにあります。


Takapan
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