永遠不滅の祝福

チア・シード

申命記33:1-29   


モーセの祝福には違いないのですが、モーセの遺言と呼ぶに相応しい内容となっています。モーセが死に臨んで、イスラエルに向かって述べた、ということになっています。申命記という、少しばかり後の時代の文書とされるものが、イスラエルの各部族の行く末を見ての記述となっている、と受け止めるのが、妥当であると思われます。
 
一つひとつの民族のその後のことを踏まえ、例えばユダについては、民のもとに返してほしいこと、敵からの助けを求めることが触れられています。けれども、ここでユダについては、もっと長く詳しく記したいというのが人情ではないでしょうか。それを、いともあっさりとわずかな言及で終わらせるという辺りが、逆にずいぶんと渋いように見えます。
 
祝福はまず、主なる方のお出ましから始まります。シナイから、というのは、モーセがシナイ山で主と会い、十戒を与えられたことを思い起こさせるものです。人間を愛し、さらにイスラエルの民を手の内に握りしめていることが示されています。そして、この主の足元に来て主の言葉を受ける、それこそがイスラエルなのだ、というわけです。
 
パウロにとり、イエスの僕は新しいイスラエルと称するべきものでした。私たちも、そこに呼ばれていると考えるべきです。主からかつてモーセへと授けられた律法とは異なりますが、イエスからキリストにつくようになった私たちへ、新たな律法が与えられました。神を愛し人を愛するということからさらに、互いに愛することへの強い促しです。
 
モーセは、ヤコブの子らの一人ひとりの名を挙げて、祝福を授けます。創世記49章のヤコブの祝福を改訂するようなものにも見えます。ヤコブの場合は、呪うようなものが幾つかありましたが、それは幾分和らいでいるような気がします。イスラエルは永遠に不滅です、と宣言しているようにも窺えます。不滅の新しいイスラエルでありたいものです。


Takapan
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