モーセの死と祝福

チア・シード

申命記33:1-34:6   


モーセの歌は、申命記32章の大部分を占めました。それは、出エジプトの過程を辿りながら、イスラエルへの、そしてまた敵対する民族への裁きを伴ったものでした。そこへ、主からモーセ自身への厳しい裁きが言い渡されました。モーセは死ななければならない、というのです。目的を目前にして、そこに足を踏み入れることが許されないというのです。
 
モーセは本当に最後の歌を、イスラエルの民に言い渡します。これは、十二部族への祝福として遺っています。ヤコブも子どもたち、即ち十二部族などへ言葉を遺していますが、呪いに近いものもそこには含まれていました。モーセは、祝福のみを告げます。厳しいことを全体に告げながらも、個々の部族に対しては、祝福の限りを尽くすのです。
 
私たちの説教はどうでしょうか。私は、ヤコブの如く、厳しい罪の指摘は必要だと考えています。しかし、このモーセのように、ひたすら祝福を差し向けるというタイプの説教をする人もいます。それもまた、すばらしいと思います。人々はそれを求めてこそ、教会へ身を寄せて行くのでしょう。そうでなければ、なかなか人は教会へなど来ないでしょう。
 
悪しき部分を削ぎ落とされるかのように自分を研く、というのも本当ですが、疲れに疲れて命の水を求めて礼拝に来ている人に、石やサソリをぶつけても、何の力にもなりはしないでしょう。けれどもまた、一見健康に良いかのようでありながら、毒にも薬にもならないものを与えられても、人は生きるものではありません。
 
モーセにしても、先んじて毒を渡したのです。過去の罪を指摘し、身構えさせました。その上で、今度は薬を贈りました。どちらも、命のためには必要なものでありました。毒にもならない薬は、悪い菌を殺す力もありませんし、破壊された箇所を修復するパワーをもつこともないはずです。薬は必ず、毒性を備えているものなのです。
 
詩の終わりにモーセは、イスラエルの神をただ称えることから始め、この神に愛されるイスラエルの民を、最高度に祝福します。あなたのように主に救われた民はいない、というように。やはり説教の末尾は、人々を祝福して、世に送り出すようにしましょう。葬られたモーセは永遠に知られなくなりました。が、モーセの言葉は、いまも生きているのです。


Takapan
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