かつての自分を思い起こせ

チア・シード

申命記32:7-18   


昔の日々を思い出せ。イスラエルの原点に目を向けよ。主のみが、イスラエルを導きました。主に愛され、その瞳のように守った、などと、美しい愛の関係が示されています。しかしイスラエルは、他の神々を祀りました。新しい神を拝み、いけにえを献げました。出エジプトの旅しかモーセは知りませんが、これは別の歴史を私たちに思い出させます。
 
後に、民族がカナンの地に定着して以降、どういう宗教的生活をしていたか、ということが、ここに表されているように思えてなりません。事実、それを重ねて、記者はモーセの立場に重ねて、このように批判しているのだろう、とは思います。けれども、金の子牛事件のように、出エジプトの民もまた、異教の神々への傾向性をもっていたのでした。
 
だから、必ずしも、この記事が恣意的に、後の時代のことを描いている、と言うつもりはありません。過ちは、多少姿を換えてでも、繰り返されるものなのです。精神的に膨張し、頑なになった民とは誰のことでしょう。自分を造った神を捨て、自分が造った神を称えるのです。近代の神学は、これを得意げにやっているのではないかと案じます。
 
自分を生んだ岩を忘れ、自分に命を与えた神を忘れた、というのは、まさに私たち現代の聖書学者の一部を指しているのではないでしょうか。神でない悪霊にいけにえを献げることなど、ありえない、と人々は考えているかもしれませんが、実のところ、平気でそれをやっているのいではないか、と私は苦しくてたまらないのです。
 
そういう自己への厳しい眼差しを必要としているのは、かつての時代も今も同じです。切り出された岩を見よ、とイザヤは言いましたが、私自身がどこから来たのか、この意識は重要です。モーセは、この箇所では、自分の出所、自己の由来を問うています。確かに、過去を顧みることで、自分を縛ってしまうということには気をつける必要があります。
 
けれども、自分がどこからどのように外れていったのか、それは実に自分では認識しづらいものなのです。そして自分は正しいものとの自負を、自分で折り紙をつけてしまうと、もう手に負えません。自分の道の誤りを知るためにも、モーセを通じてイスラエルに問うたように、原点への眼差しは、忘れてはならないのです。


Takapan
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