遺言が神の国へ

チア・シード

申命記32:45-47   


律法のダイジェスト版のような申命記は、モーセが改めてメッセージをまとめたものだということになっています。それがいよいよ締め括られるときが来ました。これより後は、モーセの死へのスケジュールと、祝福の祈りの言葉があるばかりです。つまりは、モーセの死を記録する部分となっているわけです。
 
実質、律法全体のまとめとしての役割を果たす、ここの3節分だけをいま味わうことにします。ヨシュアという後継者も決まり、主を称えると、イスラエルのすべての人々にモーセが言います。こうして神の出来事を証言したのです。この言葉をすべて心に留めよ。ヘブライの言葉で「言葉」は「出来事」をも表すことを思い起こします。
 
神の言葉は特にそうです。そのまま現実に起こる出来事だと信頼することは、当然のものです。モーセの語ることは、神の出来事が確かにその通りであった、という証言であるといいます。この証言を心にしっかりと結えつけておくのです。次の代へももたらされなければなりません。40年の間に、殆どすべてのイスラエルの民は入れ替ってしまったのです。
 
文字通り入れ替ったのかどうかはさておき、これは出エジプトの体験を直接もたない世代の人々へ向けて語られていることに、私たちは気づくべきです。そのうえ、子どもたちへも継承させよというのも、大切な命令です。この言葉は、決して空しくはなりません。人の言葉が風のように消えてしまい、実りを結ぶとは限らないにしても、です。
 
神の霊はそのような風とは異なります。子へ孫へと伝えられてゆき、どこかで人間にも目に見えるような現実となる日を待っています。この言葉には命があります。命の言葉です。ここまで言うと、キリストそのものと言ってもよいでしょう。ヨルダン川を越えて、所有する土地へと踏み込みます。それが神の国になぞらえられてゆくのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります