多様性という言い逃れ

チア・シード

申命記32:36-43   


イスラエルの神、主はその眼差しを、敵から、イスラエルの民へと向けました。まるで相矛盾するような二つの動きを主は示す、とモーセは言います。民を裁き、そして憐れみます。束縛された者も自由な者も、ありません。殺し、また生かすと言い、傷つけ、そして癒すと言うのです。人はかくも多様なのです。
 
ダイバーシティなどと流行の言葉がビジネス界から広まりますが、人は元々多様なのです。教会でも、保守的でないことをアピールしたいところは、「多様性」を合言葉のように使うことがあります。ところが、それを毎度口にする当の牧師が、わずかでも自分への批判めいたものを見ると、そんなことをするな、と憤りながら迫ってきたことがあります。
 
平和を訴える組織どうしが争いもしますし、人の言い放つ尤もらしい看板は、本当の矛盾を呈するものです。しかし、主からのものは違います。イスラエルの民の矛盾が、主を背に回して他の神々へと心を向けたことに基づいているからです。私のほかに神はいない、と宣言する神を、モーセはその民に示します。この神を見よ、この主に従え、と。
 
主はとこしえに主です。イスラエルの民あるかぎり、この主を称え続けるしかありません。誤ったものには、いずれ徹底した裁きをもたらすことが確実なのですから、この主を敵にするようなまねをするな、とモーセはひたすら訴えます。荒々しい表現がありますが、恐怖を呼び起こしますが、それは主から離れる魂への、強い迫りであるのです。
 
「多様性」という言葉で、自分勝手な弁護の手立てを備えようとする人間のような言い方を、主はすることがありません。1本の確かな、そしてどこまでも一途な糸を、主は人間に対して垂らします。それは確かな絆であり、主と人との間をつなぐ揺るがぬものであるはずです。但し、人がそれを握りしめなければ、関係はできなくなることでしょう。


Takapan
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