敵する者たち

チア・シード

申命記32:28-35   


イスラエルが主に逆らい、怒りを受けたとしても、その敵対する者たちほどの報復ではないでしょう。神の民の敵は、イスラエルどころの問題ではないのです。今回は、この神を知らない敵たちに対する、神の見解を味わいます。が、これはモーセの見解でもあります。いかに主と交わったモーセと雖も、主の思いそのものであるかどうかを疑ってみます。
 
敵には知恵がありません。思慮がないのです。切り出された元の岩が違うので、拠り所が異なるのです。主という岩から切り出された民と、出自が決定的に違うのです。イスラエルはソドムでもないし、ゴモラでもありません。根ざしているところが、初めから異なるのです。根柢が同じところにない、という味方は、イスラエル民族の誇りでした。
 
モーセは、どこからどのように、この民族愛に目覚めたのでしょうか。エジプトで、ヘブル人の地を引いて生まれはしましたが、エジプト王女に育てられていました。実母が乳母だったことで、ヘブライ文化を教育されたのだとしても、高等教育とはいえません。アブラハムの信仰がどのように継承されたのか、興味深いところです。
 
モーセを通じて伝わってくるのは、あくまでもこの出エジプトの輝かしい出来事です。輝かしいとはいえますが、脱出の民の信仰は、情けないほど愚かしいように描かれています。40年という月日の中で、ヨシュアとカレブを除いては、約束の地に足を踏み入れることはできませんでした。当のモーセさえ、そうだったのです。
 
それはさておき、敵対する民族は、元来毒性のブドウの木に過ぎず、これに対しては、主は容赦しません。初めから全く異質だというからです。その禍は速やかに訪れる、といいます。モーセの感情が混じったような叙述ですが、主がなおもイスラエルを愛しているが故でしょうか。ただ、この「敵」概念の適用については、私たちは慎重であるべきです。


Takapan
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