モーセの歌の始まり

チア・シード

申命記31:30-32:6   


エジプトからイスラエルの民を連れ出して、約束の地まで、あと一息というところに辿り着きました。実に40年を費やしたといいます。それには深い訳と、背景とがあったのですが、いまはそれに関わらないことにします。いよいよモーセの生涯が閉じられる時がきました。モーセの遺言の如く、ここにモーセの歌が掲げられます。
 
事実この後モーセは、地上生涯を全うします。申命記までは、モーセが書いたというのが伝統的な見解ですが、モーセの死の先は、さすがにモーセ自身が書いたとは説明できません。が、そうしたレベルの話がしたいのではなく、これはモーセというキャラクターが発信した、私たち後世の神の民へのメッセージとして、受け止める必要があると思います。
 
つまり、出エジプトを果たしたイスラエルの民は、一体何を頼りにしたのか、を知ります。そう、神です。神は実際何をしたでしょう。これを、モーセの歌を少しずつ区切って、味わっていくことに致します。まず、モーセはこれを、イスラエルの全会衆の耳に向けて、告げています。例外を許しません。これを聞く者はすべて、イスラエルの民なのです。
 
聞かなかった者は、イスラエルではありませんでした。どこからか、これがキリスト者へとなぞらえられてゆくことを、考えに留めておきたいものです。モーセは、天にも地にもこれを伝えます。世界のすべてへ響かせているのは、証人を確かにするためなのでしょう。この歴史の証言は、万物に降り注ぐ雨のように、行き渡っているというのです。
 
主は、動かぬ岩、そして旅の途中で水を出した命の岩でありました。完全な業は、正しさを意味します。この主に導かれたイスラエルもまた、完全さ故の民であり、正しいとするのです。主は真理であって正しいのですが、人間の中には、よこしまな者がいます。時代そのものにも、よこしまで曲がった、と形容するのは、人間への通告でもあるのです。
 
愚かで、知恵のない者たちは、神により造られておきながら、主に悪を以て返すような輩です。人は皆、この主なる神により造られました。それはイスラエルだけのことでしょうか。それはまだ問わず、さしあたりこれは、イスラエルへ向けてのメッセージです。出エジプトの旅は、本来のイスラエルの悪を目覚めさせるものとなりました。


Takapan
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