先立つ主と共に、勇気をもって

チア・シード

申命記31:1-8   


モーセの歌と遺言めいたフレーズはこの後にも記されますが、イスラエルの民へ向けて、そして後継者としてのヨシュアへ向けて、しっかりと言葉を渡す意味では、これこそ遺言であると言ってもよいでしょう。モーセの衰えと、若きヨシュアや民との対比が際立っています。モーセは120歳。肉体の衰えはやはり否めなくなりました。
 
出入りができない、というのはひとつの言い回しなのでしょうか。幕屋などへの務めの出入りか、戦いへの参加か、日常の活動を示唆しているのか、私には分かりませんが、決定的なのは、約束の地がヨルダン川の向こうに控えているのに、それがもう叶わないということでした。モーセの中に、悔しさや心残りというのはなかったでしょうか。
 
民に対しては、この川を渡るのに、先立つのは主である、と説きました。ただ人としては、ヨシュアが先頭に立つのだ、としています。ヨシュアという名は、ギリシア語ではイエスに相当します。イエスが私たちに先立って歩まれること、そして私たちを導いて行くこと、その情景を幻のように頭に浮かべてしまいました。なんとも頼もしいではありませんか。
 
カナンの地にいる先住民族をイスラエルに引き渡し、滅ぼすのだ、とも言います。これを人間だけの世界から見ると、どうにも不条理で残酷にように見えるでしょう。神の国に入ろうとする信仰の民からすれば、滅ぼすべき敵は確かにいます。主が共にいるなら、これを一掃することができるでしょう。私たちの戦いの方を心配してみましょうか。
 
ヨシュアにも民にも、主は「強く、雄々しくあれ」言いました。恐れてはならない、おののいてはならない、とも。私には「勇気をもって」のようにも聞こえます。民も不安ですが、ヨシュアも心細かったことでしょう。だから幾度も、そしてヨシュア記冒頭でもまた、この言葉をヨシュアは主から聞きます。主が共にいる勇気を今こそ懐きましょう。


Takapan
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