メタ律法とイエス・キリスト

チア・シード

申命記30:11-14   


祝福と呪いを対比させて、分かりやすく神に従うべきであることを伝えるのが、申命記のモットーです。その上、この律法、戒めを守ることにどんな意味があるかなど、メタレベルで記述することもあります。「この戒め」と指すものには、その文自身を含まない場合があって、明らかにひとつ上のレベルから他の記述を俯瞰して述べていると言えるでしょう。
 
つまり、このペリコーペが、浮いているのです。こうした戒めは難しいものではない、と戒め全体についての評価を述べています。天のもの、海の彼方のものではない、と説明することによって、難しくもないし遠くもないということを示します。しかし時に、否いつもそうかもしれませんが、聖書の言葉が遠くから聞こえることがないでしょうか。
 
美しい言葉、良い教えではあると分かる。でも、自分とは無縁のものであるようにしか感じられない響き。それはかすかに聞こえるということと同じ意味ではありません。主の呼びかけは、エリヤへのそれの如くか細い声である場合もあるのです。心理的にあるいは霊的に、主からの言葉が私から遠く離れているように自分勝手に感じているということです。
 
これは、自分の方が遠くに行こうとしている故のはずなのですが、主が共にいるという約束すら、遠く離れて感じられるということでもあります。誰かが天へまで、海の彼方へまで行ってきてくれるとでもいうのでしょうか。そうすれば、聞いて行うことができる、と人は口にしますが、それはできない自分を正当化する言い訳にほかなりません。
 
でも、イエスはこれをしてくれました。命を棄ててでしか得られない、永遠の命を取ってきてくれたのです。そしてイエス自身、その言葉であることを証言しました。イエスは、私のすぐ近くにいる。私の口に、心に、イエスはいます。私は、そのことをただ信頼してさえいればよいのです。私が特に何かをするような必要は皆目ありません。
 
だから、私にはそれができない、といったことの理由づけはいらないし、できなくてよいのです。もちろん、さあ命を棄てよなどといった無謀なことをするように強要するような主ではありません。ただ私が立ち上がり、歩み出す勇気を与えるのです。それができるタイミングを教えてくれ、そっと背中を押してくれるのです。


Takapan
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