この世で謙虚に暮らすために

チア・シード

申命記2:1-7   


イスラエルの民は荒野で長期を過ごすことになりました。不信仰の故だといいます。進んでは留まり、進んでは留まり、約束の地カナンを目指しての旅を続けます。真っ直ぐに進めばよいのでしょうか。主は、向きを変えよと命じました。人は、これでよいと自分で考えた進路を、神の側から変えさせられることがあります。向きを変える理由は、分からないこともあります。
 
セイルの山地は、すでにエサウの子孫たちが住む土地となっていました。この名は、毛皮を表すそうです。エサウは毛深く、弟ヤコブは兄への祝福を奪い取るために、山羊の皮をその腕に巻き、目の見えない父イサクに自分はエサウだと思わせて、騙したのでした。その地は後にエドムと呼ばれるようになり、エサウがエドム人の祖とされるようになったのです。
 
ヤコブはイスラエルという名を後に受け、この名を受け継ぐ民は選民としての祝福を神から受け、神の名と共に歩むこととなりましたが、それは本来エサウに与えられる祝福を、奪い取ったものでした。神はこの気の毒なエサウの子孫にも、一定の権利を与えたことになります。土地が与えられ、この世界に住まう祝福を受けたのだとも考えられます。
 
その土地を、再びイスラエルが侵すということがあってはなりません。が、その土地を通らなければ、カナンの地へ進むことができない事態となりました。それで神は、遠慮がちに通してもらえと、接する姿勢を教えました。人が立つときの足の裏ほどの面積の土地ですら、手に入れることを考えてはならない、と言います。
 
水や食糧すら、当地にありがちなもてなしを期待したり、まさかとは思うが略奪したりするようなことは絶対にするべきでなく、正当に金を払って得ることしか許されないのだ、と説明しています。神は、エサウの子孫を見捨てるようなことがありませんでした。その居場所を認めたのです。それに対してイスラエルが高ぶる思いを抱いてはいけないのです。
 
この世はキリスト者には仮の世であるのかもしれません。しかしこの世で生活していくとはどういうことであるのか、しみじみ教えられます。神に選ばれたという確信をもつことは必要なのですが、それが即ちこの世で君臨することだと勘違いをしてはなりません。一市民として謙虚に暮らすべきなのです。
 
ここまでの人生を、神は守り支え導いてきました。荒野を旅してきたような人生の中に、ずっと主が共におられました。私に何か欠けたものがあるように思えたときにも、実はそんなことはなかったのだということを知ります。私が迷惑をかけた相手に対して、ただ頭を下げる思いで接し、平和を創っていくことを心がける生き方が求められているように思うのです。


Takapan
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