いまここで主の前に立つ

チア・シード

申命記29:9-20 


イスラエルの民の旅は終わりに近づきました。約束の地カナンはもう目の前です。しかしなかなかヨルダン川を渡れないままに、モアブの地でしばらく時を過ごすことになっています。不思議な存在バラムによる祝福を浴びて、イスラエルの民は堂々とモアブの地に立ち、そこでモアブの契約を受けることになりました。モーセの遺言と共に、主に従うか否かで、祝福か呪いかを与えられることになるのです。
 
かつてのホレブの契約とは少し違った角度から律法が向けられます。ここからどこに行くのか分からないという状態で告げられる約束の地での出来事よりも、いま目の前にそれが来ているという状態で語られることとは、感じ方も違うことでしょう。クリスチャンもどうでしょうか。相変わらず、いつどうなるか分からないという、旧い希望しかもっていないのでしょうか。それとも、もう間もなくだという、どこかわくわくしたような気持ちで、主の来られるのを待ち望んでいるのでしょうか。
 
ここからの民族の分かれ道は、祝福の道と呪いの道とに通じていきます。その道はいまここにも置かれていることを厳粛に受け止めなければなりません。モーセを通じて神が呼びかけるこの箇所でも、しきりに「今日」と繰り返されます。それはまさに「今日」なのであって、私たちから見れば過去の話というわけではないのです。繰り返される「今日」は、私たちが神と出会ういまとして立ち現れてくるのでなければ、信仰ではありません。聖書が命となることはありません。
 
これはあなたのことだ。あなたとは私のことだ。心変わりをすれば滅びるしかないのです。命を選ぶしかないのです。今日、誰もが主の前に立っています。主に呼び出されて、立っています。実に驚くべきことに、神を信じていようがいまいが、神の前に人は立っているというふうに読めるのです。契約の言葉は、すべて人ならば結ばれているというものであるのです。共にいない者とも契約されている、だからこそ万物の創造主であるはずです。
 
クリスチャンは、かつて自分の中に偶像を有していたという自覚をもっています。しかしそれは今もいつでもそうなりかねないことを弁えているでしょうか。毒草や苦よもぎがいつでも生えかねないということを懸念しているでしょうか。人は思い誤ります。神を神としていないにも拘わらす、自分は神に祝福されている、自分の信ずるところに従って歩めば大丈夫だ、と。クリスチャンが陥りやすい罠です。
 
自分勝手で、独りよがりな信仰に酔い痴れているとき、そこにあるのは自己義認です。自分で自分を神とすることです。しかしそれは滅びだと申命記の神は告げます。実に恐ろしい神の怒りがそこに記されています。決して主は赦さない、と呪いがすべてのしかかってくるとまで断じています。天の下からその名が消し去られるのは、自分で自分の名を高くしたときです。高い御名は神でありキリストで十分です。いまここで、神の前に、どういう思いで立つとよいのか、それがいつも問われています。


Takapan
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