共に受け楽しむ恵みの民

チア・シード

申命記26:5-11   


与えられた恵みを共に楽しめ。選民思想らしからぬ聖書の言葉。しかもこれを主が直接語っています。旧約の律法も申命記においては、こんなにもコスモポリタン的な発想になっていたのです。これは、約束の地に足を踏み入れてすぐのことです。そこに住む時になったら、まず実りを主に献げるべきなのだと言います。
 
主が誓ったその土地についに来ました。そう祭司に告げてから、供えるのです。私たちは、自らのルーツに目を向けなくてはなりません。ルーツを知らなくてはなりません。救われて新たにこの民に加えられたのが私たちですが、その私たちにとり、この命令はどう言い渡されているのでしょうか。先祖と神との関係というものがないのです。
 
さすらいのアラム人という肩書きがあってこそのイスラエルの民でした。主に選ばれ祝された民は、小さな弱い民でしたが、大いなる国民となりました。エジプトという古代世界の大国により酷な目に遭いましたが、主を呼び求めて、その願いが聞き届けられると、そこから出て行くように助けられました。そうした歴史が、私たちにはないのです。
 
あるとすれば、精神的な旅程です。何を約束されたか、それは血族たる先祖にではなく、魂の原点として与えられたのでした。私たちはかのアブラハムなどに与えられた信仰を受け継ぐ仲間に加えられたのです。それでいい。だからまず献げよ。まず主へ返せ。大地の実りはすべて神からの賜物であり、初物を献げることで神との関係を確かなものとせよ。
 
初めに神が与えてくださったからこそ、人はある意味で返すことができます。これは単純にお返しなのではありません。神の前にただの人間にすぎないことを覚り、その人間同士のつながりの中で、精一杯の喜びを満喫するべきなのです。この構図の中では、異邦人を排除する論理はありません。私たちもまたそのようにして迎え入れられたのです。
 
寄留者と共に楽しむべし。教会に身を寄せようとする人は、今度は私たちにとり寄留者のようなもの。教会はきっとその人たちを受け容れます。共にという意味では、もはや区別する垣根はありません。各自恵みを与えられ、互いに相手を与えられ、得られたものはすべて恵みとして与えられたものだと感謝します。恵みを共に楽しむのです。


Takapan
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