そこには大祭司イエスがいる

チア・シード

申命記26:1-4   


モーセが命じたはずの申命記が、カナンの地に入ってからの生活の細々とした規定を長々と述べるのはおかしい、と言う人がいます。確かにおかしい。近代的な記述のルールにあてはめれば、そうでしょう。けれども、人間は本来そのように現代的な枠に縛られない言及を、真実のものとして受け止める考え方を常としていたのではないでしょうか。
 
「モーセ」というキャラクターに語らせただけのことを、科学的に誤りだなどと騒ぐ方こそ、科学の虜になっているようなものです。「あなたに相続地として与える地」は約束のイスラエルの地のことでしょうが、このシンボライズに対しては、私たちは二つの姿勢を持ち得ることでしょう。神の国という究極の姿と、キリスト者としての新たな人生と。
 
もちろんここでは、前者は当てはまりません。教会に住むと想定するのは悪くないでしょう。さあそこで一つ、してもらいたいことがあります。「その土地の実りの初物すべてを取って籠に入れ」て、主の名の置かれた場所へ行くのです。そして祭司と会い、主に報告します。実りの盛られた籠を手渡し、主の祭壇の前に供えてもらいます。
 
分かりやすく捉えると、献金の規定と見てよいでしょう。得られた収入の良いところを教会へ献げ、主のためにそれが用いられる、という図式に重ねて差し支えないと思われます。とても実用的な理解の仕方であり、それはそれでよいでしょう。でも、新約の徒は、大祭司イエスという存在を知っています。私はイエスの前に、実りの初物の籠を献げます。
 
それは、金品しか象徴しないわけではありません。私に与えられた才能でも失敗でも、喜びでも悲しみでも、それは自分だけのものに留まらないのです。辛さも重荷も、もしかすると絶望のようなものであっても、イエスの前に持って行き、直に手渡したいものです。大祭司イエスそれを、父なる神に届けます。神は私を知ってくださるのです。


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