今日、見上げるは

チア・シード

申命記26:16-19   


あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守る。この断言が心強いものです。主の聖なる民となる。これも断言です。主が言い放ったことは、そのまま現実となります。神の言葉は、存在そのものなのですから。ここを忘れてはいけません。宝の民、聖なる民とはずいぶん聞こえがよいですが、「あなたに告げたように」と、確かな約束を感じさせます。
 
主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います。そう明言したからこそ、宝の民、聖なる民とされるというのです。無条件にさせてもらえるのとは違うように見えます。だから、これらは主の命令として与えられ、さあ守れ、と迫られているのではありません。人の側が自由意志により、その道に入ったのです。
 
このために、イスラエルは、あらゆる国民の中で高く上げられた民族となりました。栄誉と名声も与えられたのです。主の与えた掟は、確かに神から一方的に与えられたものでしょう。主が命じたものなのですから。それが「今日」命じていることになっています。契約ならば、日付が書いてあるでしょうに、その日付が「今日」のままなのです。
 
昨日でもなく、明日でもない。昨日でもあるし、明日でもある。いつでもここを聞く度に、その都度の「今日」がそこにあります。日々新しく、この契約あるいは神の命令を、私たちは知るのです。心を尽くし、魂を尽くして、守り行うのです。心新たに受け容れるのです。すると、主もまた「今日」という日に、宣言することになります。
 
すでにあなたに告げたように、あなたは主の民なのである、と。新約の恵みの中でこれを聞くとき、少し違った風景が見えてくるかもしれません。すでに、口先で明言しても従いきれない、人間の弱さを私たちは噛みしめています。そのとき私たちは、イエスを見上げます。イエスの赦しと救いに感謝し、主よ、従わせてください、と申し出るのです。


Takapan
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