地を与えられた恵みの中で

チア・シード

申命記26:1-15   


もう相続地に入ってしまいました。話はそれで終わりでなく、ここからが始まりだとも言えます。ちょうど、結婚がゴールではなくて、スタートであるのと同じように。地を所有して住み、それからどうするかが問題です。その時の祭司に約束の地に来たことを報告するというのは、この場面で述べるにはなんとも奇妙に聞こえます。
 
祭司は一緒にその地に来たはずなのに、恰も以前からその地にいたかのようですから。一人ひとり、その地を所有する時が別々でありすぎるように見えます。でも、違うなら違うで、ここに一つの型を見てもよいと思われます。キリストのところへ、一人ひとりが報告に来る姿を見るような気がするのです。
 
私はかつてさすらっていました。地上に生まれ、辛い思いもしたが、主を求めて叫ぶと、主は導いてくれました。そうしてついにその地、神の支配の世界に入ることが許されました。実りが得られたのは、もちろん私の力によるものではありません。主の前に供えに来ても、すべては与えられた恵みであり、その土地の寄留者も共に楽しむべきものです。
 
これはいつか先のことであるかもしれません。すでに今もうここにあるものなのかもしれません。が、今ここで私たちは受け止めて、考えるべきだと思います。なお、三年目の十分の一については、14章で告げられていましたが、ここで改めてその具体的な有様が説明されます。レビ人、寄留者、孤児と寡婦へ与えます。聖なるものとして共に喜ぶのです。
 
聖なるもの、特別なものとしてとっておいたものを献げたのですが、人々のために、特に自分では食を得られないような立場の人々のために与え、共に喜びを受けるという形をとることになります。主よ、あなたに命じられた通りに行いましたから、どうか祝福して下さい、と祈るのは、業績主義のようで好ましく聞こえない人がいるでしょうか。
 
でも、ここにあるのは、すでに祝福されているという思いです。それにより、十分に心がもう満たされているという感覚です。交換条件ではないと思うのです。戒めを守るということは、厳しい修養のようなものではありません。神の恵みを中心として、受け、献げ、そしてこの上なく喜ぶことであるに違いないのです。


Takapan
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