貧しい者の立ち位置

チア・シード

申命記15:7-11   


見慣れた箇所ですが、今回ふと、目に留まったことがあります。負債免除の年が近づいたために、貸し渋ってはならないことを述べてすぐ、モーセはこう言っています。「彼があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになる。」民事裁判のようです。もし人が訴え出なかったら、罪に問われない、というふうにも聞こえます。
 
神の前に於いて罪となるとなれば、即座に罪となるのではなかったのでしょうか。神はすべてを知っているのだから、人が訴えようが訴えまいが、罪は罪だったはずです。隠れた罪があっても、それは発かれるに違いありませんでした。もちろん、sinとcrimeとの区別はあったかもしれませんが、キリスト者にとっては自覚の度合が違います。
 
誰かに訴えられて初めて自分の罪を知った、というわけではない場合が多いでしょう。神と直の関係に於いて、神の前に、あるいはイエスの前に、罪の赦しを経験しているものです。但し、そういうものだと油断することはできません。ダビデ王は、預言者ナタンが寓話的に不倫と殺人を諭したのに対して、全く気づくことがありませんでした。
 
モーセが実際に罪の問題を処理するときを思い起こしてみます。エトロが何もかも一人でやっていると秩序が破綻すると指摘したのです。モーセが、人々の訴えに基づく民事に多く手間取らされていたのを見たからです。人々からでなく、神意に基づく重要な事案についてのみ、モーセ自身が検察官にもなり、裁判官も務めれば、それで十分でしょう。
 
貧しい人々については、「心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない」と律法は言います。これは、訴えられて初めて規定されるものではありません。訴えられる前に動け、と言っています。そうやって動けば、神から祝福を受けることでしょう。しかも、「この地から貧しい者がいなくなることはない」から、その働きは終わることがないそうです。
 
ところでこの命令が「あなた」に向けられたとき、その「あなた」自身は、貧しい者ではない、ということが前提となっていることに気づいていたでしょうか。さらに、貧しい者自身が、この律法が適用される対象ではなかった、ということにも、気づいていたでしょうか。貧しい者というものは、律法以前に、直接神の手の内にあるということでしょうか。


Takapan
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