この地を踏まえた惜しみなさ
チア・シード
申命記15:7-11
「この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい」という結びの言葉を、心して受けましょう。手を広げよ、とは、助けよ、施せ、ということです。これは、神がそのように私たちに対して手を広げているからです。結局そこを弁えておかないと、すべての律法が意味を失ってしまいます。
人の世のご都合的な決まり、あるいは打算のようなものとして、形だけが残ってよいわけがありません。「同胞」とは、同じ民族、ここではイスラエルの民のことだと考えられますが、苦しむ者や貧しい者というのがその中に限定されるのか、それとも異邦の民をも含むのか、そこだけ見ると、なんだか悩ましい気がしないでもありません。
しかし「兄弟の一人が貧しいなら」と初めに出てきています。この兄弟というのは、イスラエルということなのでしょう。そこには「主があなたに与えられた地のどこかの町で」という制限が見られました。結びにおいても「この地に住む」という条件がありました。イスラエル民族は、この土地なるものと、一体なのです。
後の世に、カナンの地から追い出されたり、散らされたりした歴史の中では、この土地の概念が、このままでは賄えないことになります。ところが申命記そのものの成立は、もしかすると捕囚の期間ではないか、とも見られています。もちろん捕囚は民族全員ではありません。エリートたちが中心となって、バビロンへ移されたと言われています。
しかし、中枢部というか主要な階層が、約束の地を失ってしまったのです。申命記の律法は、ここだけではありませんが、カナンの地の存在を前提としているように見えます。国の回復を信じて、民族の歴史を確立しようとした意図も、確かにあるでしょう。しかし、バビロンの地でも「主があなたに与えられた地」のように見なしていたのでしょうか。
負債免除の年の規定など、理解ないし説明がしづらいところがありますが、「惜しみなく与えなさい」との声に従うことこそが、主からの祝福となるのであるとしたら、主はいま「あなたに命じる」と私にもいまここに迫っていることになる。そう受け止めましょう。「この地から貧しい者がいなくなることはない」というのは少し切ないのですが。