手を大きく広げよ

チア・シード

申命記15:7-11   


惜しみなく与えよ。神が祝福して下さる。ここだけを繰り返し聞いていたいものです。いえ、聞かなければなりません。物惜しみをしないように、と言いますから、あくまでもここで与えるのは、物です。物を惜しんで、与えないというようなことのないように、と繰り返します。私などは気前よく与えるばかりか、貸すことも渋るので耳の痛い話です。
 
七年目の負債免除の規定が、律法にありました。これは素早く計算しなければならないことです。今貸したら来年チャラにされるなどとなると、貸し渋るのは当然です。貸すタイミングがよくないことは、誰もがすぐに計算します。必要なものを十分貸し与えよ、とここに書かれていますが、貸すことがそのまま与えることだ、と言っているようなものです。
 
大きく手を広げよ、というのは、心を解き放ち、心を開放せよ、と言っているようにも聞こえます。でも、私たちに向けて、このように大きな手を広げよ、と言ったばかりか、自ら両手を広げて私たちにすべてを与えた方がいました。十字架の上で、イエス・キリストが両手を広げ、ずっと広げっぱなしでいたことを忘れることはできません。
 
惜しみなく愛と命を与えて下さいました。与える一方でした。ところで律法では、もしも惜しんでいたら、与えられなかった貧者が訴えることもできたといいますから、惜しんだ側は罪に問われることになります。しかしイエスは惜しみなく与えたのに、罪を問われました。この私たちが、理不尽なことに、そんなイエスを罪人として処刑したのでした。
 
私たちは何と貧しく、不条理なのでしょう。財のない貧しさばかりでなく、またそれ以上に、心が貧しいのです。イエスは、そのような私たちのことをも、すでに見越していました。だから、山上の説教で、心の貧しい者は幸いである、と告げたのです。神の国は、そのような人々のものだ、というところにまで言及していました。
 
私たちはとことん至らぬ者です。神に逆らい、神の期待に添うどころか、常に神に反逆し、劣等生どころではない有様を、呈しています。そういう私たちのために、神がそこにいて私たちを支配しなければならないのは当然です。この地から、このような貧しい者がいなくなることはないでしょうが、神の国では、十分豊かにされることになるでしょう。


Takapan
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