貧しい者

チア・シード

申命記15:7-11   


負債免除と奴隷解放の規定がここにあります。七年ごとの特別な規定は、安息日になぞらえているものかもしれませんが、法としても特異なものに見えます。これらに挟まれた形で、これまた不思議な規定があるというのが当該の箇所です。どうしてここにあるかは明瞭です。七年目の負債免除の年が近づいても貸し渋りをするな、ということです。
 
定期的な徳政令は、当然貸すほうにそれを見越して警戒を与えることになります。だから十分に貸し与えよと申命記は命じます。「借りる」という動詞のヒフィル形つまり使役の形で「貸す」意味になっていますが、邦訳はこぞって「貸し与える」の動詞を使います。利子を取り益することを目的としていないからでしょうか。
 
七年目が近づいたために何も与えないということがないようにせよ、とも命じていることからも、この貸すことは実質与えることを意味していたと考えられます。七年目直前に貸せば、当然与えたことになるからです。だからこのようにして与えることをしなければ罪に問われるといいます。罪を負う、重い心に陥るというような、罪のことです。
 
困窮の人へ向けて手を大きく開けよ。なんとよい響きの言葉であることか。手を開くことは、心を開くことでもあり、相手を受け容れることでもありましょう。それは恐らく、主からの恵みを受けとることにもなります。神に対して心を開くことと、人に対して心を開くことととは同じことの別の側面であると読んでみたいと思います。
 
主の祝福があるから施す、というのは語弊があります。何かしら特別な行為をするから救われるという条件のように見えなくもないからです。けれども、惜しみなく与えるスピリットまでもが神から与えられ、神のしもべに相応しい様子を描写していると考えると少しはましでしょうか。受けるより与えるほうが幸いだ、とも言われる通りです。
 
それにしても、この地から貧しい者がいなくなることがない、というのは少し寂しい宣言です。恐らく与える機会がなくなることはない、と言いたいのでしょう。貧しい者などいないから与えなくてすむのですなどと言い訳をすることがないように。そして、貧しい者、つまりまた幸いな者は、この私自身であることに気づくようでありたいと思います。


Takapan
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