言い訳の達人

チア・シード

申命記15:7-11   


この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。ショッキングな指摘です。この一言がなければ、ここにある律法は、ただそこにある一つの飾りの言葉のようであったかもしれません。律法は法律とはまた少し違います。西欧語では同じ語で表されますが、日本語では造語により区別しました。法律には禁止事項が目立ちますが、律法には積極的にせよという道徳的な指示も多分にあります。
 
与えよ。いわゆる喜捨は、イスラム文化ではいまも重要な徳であろうし、中東ではもてなしを含め、習慣に近いほどになすべきことと考えられているようです。けれども、いくら施しをしたとしても、貧しい者はなくならない、と絶望的なお達しです。しかも、この直前の4節で、「必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」とまで言っているのに、このありさまです。貧しい同胞は、この「あなた」には含まれないようなのです。
 
しかしこの規定、すなわち貧しい者に対して手を開けという命令が残ったことで、私たちは言い訳ができなくなっています。逃げ道は塞がれました。ひとは言い訳の名人です。何かしら自分ができない理由を提示することができます。しかしそれを阻む力をもつ命令です。「よこしまな考え」はフランシスコ会訳では「さもしい考え」とあり、自分の心の中にある暗いものを思い知らされます。
 
言い訳は、小さな子どもにも浮かんできます。子どもから大人まで、言い訳花盛りです。そもそも創世記でアダムとエバの口から、最初に言い訳が零れたではありませんか。その意味でも原罪は誰の心にもちゃんとあるとしか言いようがありません。いとも簡単に、言い訳が溢れて出てきます。
 
施せという命令は、施さない実情に基づいていますが、それでも命令があれば、施しはするでしょう。それでも貧しい者はいなくなることがないのは、社会自体が抱える矛盾であるかもしれません。ひとの心には、どこまでも閉ざす心があるのでしょう。財を手放すかのように、手を開くという言葉が潔いのですが、どうしても手を閉ざしてしまいます。
 
徳政令のように、律法では七年目に借金を帳消しにするよう告げられていました。そのため七年目が近づくと貸し渋りが起こります。いやはや、それは貸す側からすれば当然のことでしょう。しかしよく見ると、与えよではなくて「貸し与えよ」と記されています。用例の少ない語で、通常の「与えよ」なら激しく多いのに、こちらは稀少です。特殊な背景を含んでいるのかもしれません。
 
たとえ貸し与えたにせよ、帳消しの掟があるからには、もう返って来ないという気持ちでいるのが通例であったのでしょうか。貸すという名目ではあるが、もう与えた覚悟をしておけというつもりなのか。結局もう渡してしまうことと内実は変わらないことになります。こだわりなくもう与えよ、と主は呼びかけます。そこで私が損をすることも、主はご存じです。そして与えた以上の祝福を備えてくださっていることは、間違いないのです。


Takapan
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