その後の歴史

チア・シード

申命記15:1-11   


ディアスポラと呼ばれる離散民。イスラエル人はカナンの地からローマ帝国により徹底的に追い出され、全世界に散らばることとなりました。だが、聖書という精神的支柱があり、それを軸にした信仰により、二千年近くにわたり同じアイデンティティを保ちつつ生きてきたと思われます。政治的問題もありますが、20世紀に国家が復活しまた。
 
彼らはユダヤ人と呼ばれ、どうかすると金貸しの代名詞のように扱われることがありました。祖国に足を立てていない生き方は、不動産ではなく、動産である金貨や宝石を財産の基準とし、いつどのように逃げざるをえなくなり移動しても、財産が確保できるようにしていた、という理解もなされています。
 
申命記の時代に、その片鱗があると見てはいけないでしょうか。「貸すようになる」という民族への祝福が、まるで将来の出来事を言い当てているかのように。借りるような暮らしでなく、貸すほどに豊かになる、という程度の意味だったのかもしれませんが、そこからさらに、多くの国民を支配するようなる、とも言われています。
 
ユダヤ人は、歴史上、諸国で支配されていたかのようにも見えますが、精神的・実質的に支配されることはなかったのだという自負ももてたことでしょう。迫害されても、打ちのめされても、決してすべてを支配されたわけではないのだ、と。改めて歴史を振り返ると、それもそうだと思えるふしがあると言えるのではないでしょぅか。
 
ところで普通この聖書箇所で注目されるのは前半です。ここには、ヨベルの年とまではいきませんが、七年毎の特別な規則について触れられています。果たしてこれは現実に実施されたのでしょうか。あるいはこうでもしないと経済が立ち回らないような何かの事情が当時あったのでしょうか。それとも理念が書かれているだけなのでしょうか。
 
ところがここで、外国人からはこの七年目も夫妻を取り立ててよい旨が記されています。同胞にだけ適用される免除の規定だったというわけです。ではその外国人とはどこからでしょうか。サマリア人が後に民族から切り離されて区別されたときには、もはや同胞とは呼べないようになったからだと思われます。
 
イスラエルの民は決して人類をおしなべて共に歩む者だとは考えていないようです。目指すは相続地です。そこで祝福され、貧しい者は一人もいなくなると言います。しかし主の声に聞き従い、戒めをすべて守り行うことがその条件とされています。祝福に値しなければイスラエルの不信仰と背反が不幸の原因となります。それは現実の歴史なのでした。


Takapan
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