単なる十分の一ではないようだ

チア・シード

申命記14:22-29   


聖書には、収入や産物の十分の一を神殿に収めよ、というような規定があると言われています。教会でもその数字を表に出して、献金をするようにと勧めます。ここ申命記では、すべての収穫、つまり畑で穫れた作物の十分の一を取り分けよ、と言っています。そして主の前、主の名を置くために選ばれた場所において、十分の一を食べよ、と。
 
おやおや。献げて手放すのではなく、食べよですか。どうやら思い込んでいたこととは異なるようです。主の前で食べ、家族共々楽しめと命じています。作物のほか、どこから現れたか分かりませんが、ぶどう酒、オリーブ油も、新しい物がそこにあって、その十分の一を食せよと言うのです。牛や羊の初子も食べよ。こうして主を畏れることを学べ。
 
十分の一を教会に献げよという礼拝説教は、世にいくらでもありますが、この食べるということについて語る説教は、なかかな見当たりません。参考になる説明を探しまたが、分かりませんでした。聖書にも話しやすい箇所と話しにくい箇所があるのは当たり前ですが、聖書に書いてあることの意味を教えてくれる人はいないでしょうか。
 
この後、穀物を運ぶのに神殿まで遠ければ銀に替えよと言い、貨幣経済とエルサレム神殿の存在が前提されているように見受けられますが、その銀もまた、好きなものを買い求め、食べて楽しむためにあるようです。益々、献げたものを共に食べるということしかここには書かれていないように見えます。
 
さらに続いて、収穫のための土地をもたないレビ人のために、三年毎に人々は十分の一を町の中に置き、そこから、レビ人はもちろんのこと、寄留者、孤児ややもめなどが食べて満足するべく求められています。これだけの記述では、具体的などのようにするのか、どうしていたのか、私のような凡庸な頭脳では想像することができないでいます。
 
三年毎に、十分の二を献げなければならない、ということなのでしょうか。献げる規定は、均等ではないとするなら、生産調整はけっこう細かで大変になるかもしれません。さらに、七年目には負債免除の規定もありました。この通り回っていなかったにしても、律法は律法ですから、蔑ろにされていたとは思えないのですが、一体どういう経済なのでしょうか。


Takapan
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