ネット社会こそ必要な警戒

チア・シード

申命記13:1-6   


「試みにあわせず」と主の祈りでキリスト者は祈る。だがもし神が試みるとなると、防ぎようがありません。主が試すとここに記されているのです。本当におまえたちは主を愛するのか。それを試すのだ、と。私たちは対処の仕様がありません。但し、「悪より救い出したまえ」という祈りが続くわけですから、主による試みが悪より護ると理解しておきましょう。
 
主に背くように語る者から護られる。それが祝福の道です。それは誰か。ここでは預言者と夢占いだと言っています。預言者というのは神の言葉を預かり伝える者ですから、預言者そのものが悪いとは言えません。ここでは恐らく、そういう自称者のことであり、神を詐称して人々を惑わす者だということでしょう。夢占いと同義語であるわけです。
 
それらは、神からのものではありません。それでも、しるしや奇蹟が見せることが挙げられています。だから、現象だけで神からかどうかを知ることはできません。他の神々へと誘うが故に、それが悪しき者からの試みであることが分かるのであって、神への道、イエス・キリストから外れさせようとするものであることになります。
 
そういう罠が日常の中にいつも迫っています。機会を見て襲いかかってこようと待ち構えています。こちら側からすると、全く思いがけない時にその攻撃を受けていることになり、知らぬ間に引っかかっているということがあるのです。それに気づくのは決まって後からです。その時にはもう遅いということです。
 
巧みなその業を見抜くことができるなどと自らを過信してはいけません。そうした言葉に耳を貸してはならない、とも言われています。いつでもどこからでも、魂は奪い去られ得るのです。ここに挙げられた例などは、そのごく一部に過ぎません。神のお告げだと言いよってくるのは、この世で牧師という肩書きをもつ者であってもあり得ることなのです。
 
夢占いとなると、正当な根拠や論理もなく、思いつきでツイートを繰り返すような人間をも含むことになると考えます。人を騙そうなどと本人が思わなくても、愚かな思いつきを振りまけば、それに影響される人々が現れます。自分はそうはならない、と思う者こそそうなります。ネット社会は、夢占いに溢れていると私は感じています。
 
よほど気をつけているつもりでも、いつしか影響を受けているものなのです。そう考えると、申命記の指摘は相当に普遍的なものであることが分かります。神の命令は、付け加えたり減らしたりしてはならないという冒頭の戒めも、そこにつながってくるのではないでしょうか。軽々しい情報の発信は、神からくるのではない、夢占いにほかならないと警戒すべきです。


Takapan
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