追い払い、破壊せよ

チア・シード

申命記12:1-7   


追い払おうとしている国民というのは、その身になってみると甚だ迷惑な話です。困ったものです。しかし今は、そうした現実味を帯びない形で読ませてもらいましょう。他の神々に仕えてきた自分のかつての姿をそこに見ることにします。少なくとも私にはそれが当てはまるわけで、それを破壊しろというのは、理に適った命令であると言えます。
 
自分がかつてこしらえてきた場所を壊せというのは、適切な指示だと受け止めてみます。私はそうした神ならぬものを拝み、信頼してきました。その場所をもう二度と使うことがないようにしてしまえ、というのです。そんな名はそこから消し去るべし。名は体を表し、私の魂を支配する、神ならぬ神ですから、一切縁を切るべきなのです。
 
求めるのは別の場所。主が定めるところです。主を拝する場所は、私の中の、どこにあるのでしょうか。どこか隅っこの方でしょうか。中心に、魂の中核にあると言えるでしょうか。献げ物を携えてそこに来る。それは神へただ渡すというものであるのみならず、主の前で、家族共々食べるというのですから、献げ物は棄てるものとは違います。
 
主が祝福してくださったのですから、献げ物とは共に食するものだということを心に留めましょう。それは、互いに仲間であることを認め、約束するものとなります。親しい交わりのある関係が築かれていないと、共に食事をすることはありません。私たちは、神の宴に招かれているということを、決して忘れてはならないのです。
 
しかし、そこらから集めよということでのこのこやってきた一人の男が、礼服を着ていなかったばかりに、追い出されてしまう話をイエスはしていました。神の宴には、たとえ急遽招かれたのだとしても、礼服を着ていなければならないというのです。この礼服というのは、キリストを着るという表現から連想する理解でよろしいでしょうか。
 
救いの証しがありますか。この方と出会い、この方の赦しに与ったというしるしを以て、キリスト者となったことを条件とするのです。そして自分の中にあった偶像と、それを拝するために設けた心の中の場所を破壊して、全く使えないものとする必要がありました。神は、そうして神のために空けた心に住まう計画をお持ちだったのです。


Takapan
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