子への継承

チア・シード

申命記11:18-21   


出エジプトの荒野の地において、入植地となるカナンの地での背信が豊かに語られていることを、矛盾だとか、だから聖書は嘘だとか言う人がいます。私たちの常識である時間系列がそこにあるわけではないのです。そもそも執筆されたものに対するスタンスや考え方が違うのであって、私たちの秤で決めつけて量ることはできないのではないでしょうか。
 
イスラエルはカナンの地に入ると、他の神々を崇拝してしまいます。気をつけよという警告がかつてなされていたとしても、それはひとつの文学形式であってよいはずです。ここから、神の言葉を常に身につけておけ、との命令が始まります。表現は変化しますが、内容的には一つのことがここで告げられていると捉えてよいかと思われます。
 
手に結び、額に付けるなど、具体的な表現がここにあるため、非常に力強い印象を与えます。子どもたちへの教育としても、実に激しいものがあると感じます。現代もなおユダヤ人の日常にこれは活きており、その教育の徹底さはよく知られています。子どもは一定の年齢になると、律法を覚えなければなりません。また、そのように生活することを教えられます。
 
寝ているときも唱えよというほどですから、道を歩きながら、というくらいは当たり前です。親は家の入口の柱にも表記しておかなければなりませんし、町の門に掲げられていることがその町の忠信の証しともなるように考えられています。このようにすることで、主の約束した地に入ったときに、誰も長い生涯を与えられることになる、というのです。
 
これをしたから、というふうではありません。邦訳では「こうして」なっていますが、このため自然の成り行きのように見えます。人の行いが人の運命を決定づけるというように解しにくいようにしているのかもしれませんが、考えすぎでしょうか。長生きというような言い方は、新約の時代では永遠の命という表現に傾いていくと考えてはいけないでしょうか。
 
そんな馬鹿な、と一蹴されてしまいそうです。でも、何かしらの並行関係があると見たいと思うのです。しかも、ここは子どもたちの生涯も保証されていることが見られ、子どもたちが信仰を継承した上での話となっています。改めて、信仰の継承という問題が私たちに迫ってくるように思います。果たして、継承していく希望が、私たちにあるでしょうか。
 
そのためには、親の責任が重要な意味をもちます。親がどれだけ子どもに教育を施せるかという問題です。但し、すべては神から発します。それは、理性に反することもありませんから、怪しい宗教とは一線を画していると言えます。私たちは、私たちの子どもに、どう伝えているでしょうか。まず子どもへの伝道こそ、必要なことであると考えたいものです。


Takapan
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