寄留者を愛しなさい

チア・シード

申命記10:16-20   


寄留者を愛しなさい。それが主に仕えるということなのです。愛するというのは、口先だけのことではないはずです。実際に助けることが必要です。かつて君たちはエジプトで寄留者だったではないか。この切り口は、イスラエルの倫理を支える中核にある原理です。恩返しという訳ではりませんが、受けた恩を神に返すと理解する人もいるでしょうか。
 
あるいは、自らの痛みをエンパシーの根拠としていくということもできるでしょうか。ただ問われます。私たちは本当に寄留者を愛することができるのでしょうか。寄留者に対して、何ができるでしょう。いま、難民と呼ばれる人々が沢山います。仲間や家族を殺され、なんとか生き延びて逃れて途方に暮れている人がいます。子どもたちがいます。
 
そもそも命があっただけでも幸運だとも思えるほどの仕打ちですが、せっかく生きられても、続けるのが難儀です。食糧の不足、水の困難という事態への援助は、何かできる可能性があるとも考えられます。日本のような国へまで北としても入国が許されない状況は、政治的な理由であるならば、これは改めることはまだできるのではないでしょうか。
 
それなのに私たちは動こうとはしない。自らを護るという大義名分で、難民を受け容れる声を発することがない。私たちは主に仕えてなどいないのです。自分の腹に仕えているに過ぎないのです。直接自分の腹にではなくても、自分の腹を具象化している権力に仕えているのです。主は神の中の神、主の中の主と口では称えているにしても。
 
そこにあるのはおぞましい自己愛と自己保全。私を形成しているのはせいぜいそういうところのものなのです。これを思い知ったとき、今回ペリコーペとしては不自然なままに切り取られた16節の言葉が響いてきます。「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」と、後から読んでみるのです。
 
「だから」という語が聖書協会共同訳にはあります。割礼に比したのが妙にリアルですが、私たちは心を開いてなどおりません。心の内を剥き出しにしてはいません。それを隠し、ふだんは素知らぬ顔をしています。口では愛しますなどと言いながら、自分に都合のよいように言葉を操っているばかりです。自分の中の偽善をごまかしているのです。


Takapan
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