呼びかけられた民として

チア・シード

申命記10:12-22   


主の契約の箱について言及した後に、イスラエルよ、と語りかけます。さあ、この神がいま正に、あなたに求めていることは、何だと思うか。心してかからなければなりません。いまやモーセも本気です。主を畏れ、愛するのです。そうしてあなたは、幸せになるのです。申命記は、しばしばこの「幸せ」を鍵として、主に従う民の幸を告げます。
 
幸いと呪いと、どちらを選ぶのか、と迫ります。あなたは主に選ばれたのです。天地万物を造った主が、幸せを与えるために選んだのです。主の道を歩むこと、つまり主を信頼して生きること、そしてこの主に従うことのほか、呼びかけられ、選ばれたあなたは、他にもうすることすらないのだ、というほどに、ひたすらこの歩みを続けるしかありません。
 
主の選びの民という考え方は、まだ先があり、人類すべてへと拡がってゆく余地を残していますが、この選びという段階を経るのは、悪いことではありません。注目すべきは、「あなたがたの心の包皮に割礼を施」せ、というように、割礼というものを、心の問題としてはっきり示しているところです。これは新約の世界に直結するから驚きです。
 
肉体の現象としての割礼という措置が、確かに心のものとしてぶつけられてきます。割礼は男性に対してのみのものでしたが、心の問題は女性にも適用できるのでしょうか。本当はそうでなかったかもしれませんが、女性の心にもこれは届く可能性があります。それは、新約聖書でもなかなか徹底できなかった思想ではなかったでしょうか。
 
割礼をしなければ救われないという思想と、パウロが戦っている最中にも、救いは男だけなのか、などと叫んだ形跡がありません。パウロも、女性の救いについては、議論としては見落としているかのようです。もちろん、女性が弟子に加わることを拒んだ様子はありませんが、少なくとも割礼に関しては、女性をどう見るかには関心がないようです。
 
ここは寄留者のことが特に言われています。もちろん出エジプトの歴史で、民は自ら寄留者だったからです。私たちは、かつての自分が受けた恵みをすら忘れ、自分で偉くなったかのように感じてはいなかったでしょうか。70人のヤコブの子たちが、星の数ほどにもなる祝福を受けたことですら、もはや意識の外にしかなかったかのように。


Takapan
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