王の気紛れ

チア・シード

ダニエル6:26-2   


ダニエルがライオンの穴に投げ込まれることになりました。ダレイオス王はダニエルに好意的でしたが、元はと言えばこの王が部下の提案に軽率に同意したからでした。王のほかを拝む者はライオンの刑である、などと。王もダニエルのことを知っていれば、それがダニエルを窮地に追い込む可能性があることに、どうして気づかなかったのでしょうか。
 
けれども法として成立させてしまった以上、王とてもうどうしようもありません。ダニエルに好運を祈るけれども、猛獣の前に何の信仰の助けとなったでしょうか。こうした場面が、子どもにはドキドキハラハラとなるし、大人も物語に入っていく。助かるのだろうと予想はしていても、どのように助かるのは、期待が膨らみます。
 
古代のこのようなエピソードにまつわる報復は、それにしてもどうしてこうも残酷なのでしょう。ダニエルは助かりますが、ダニエルを陥れようとした者たちは、王の指示により、妻子もろともライオンの洞窟に投げ込まれたのです。いったいこの処罰は、どんな法に基づいてなされたのでしょう。これもまた、王の気紛れによるのではないでしょうか。
 
王の一存でこんなに簡単に人が殺されてよいのか。つまりは、ユダヤ人の気に入るようなストーリーがここに組み立てられているわけです。エステル記もそうでした。迫害を受けやすかったユダヤ人は、その報復が神の名の下に正義となるとでも言いたいのでしょうか。この考え方が今のパレスチナ問題、シオニズム運動の根にあるのでは、と案じます。
 
倍返しどころではありません。さらにこの事態の原因は、ダレイオス王自身であり、王とて法を曲げられぬとした直後、王が即座に判決を下して一家を殺しているのです。本当に不条理なことです。ユダヤ側の正義の物語なのでしょうが、王はダニエルの神を恐れよと全国に文書を送ります。王は立法者であり、王の考え一つで国は動きます。
 
ライオンからダニエルを守った神は、生ける神だとも言い、救い主であると触れ回るのは、やはりユダヤ側の論理でしょう。王の機嫌ひとつで人の命も国の制度も自在に変わります。かつてはそれが許されていたという事情は分かります。人間の世の中はそうしたものだという諦めというか、精一杯の対処であったことは想像できます。
 
しかし、このことで、世界を統べる主なる神もまた、その立てる法により人が自在に扱われるということを教えているように受け止めてはどうでしょうか。せめてそのようにでも読まなければ、このあまりの不条理な仕打ちに、気が滅入りそうです。この王以上に、本当の神のほうには、力があり、正義があるとでも考えなければ。


Takapan
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