ダニエル書と新約聖書

チア・シード

ダニエル6:17-25   


大臣となったダニエルが妬まれるのも、分からないではありません。捕囚の民からその才能を見出されて出世しました。バビロニア帝国の人々からすれば、とくにその高官などダニエルを目の上にもつ政治関係者たちには、面白くないでしょう。ダレイオス王がうっかり彼らの企みに乗ってしまったことが事の因ではありました。
 
ダニエルがその神に、それまでと同じように普通に祈り礼拝していたのが、その企んだお触れに引っかかってしまうのです。獅子の穴へ投げ込まれるという定めに従わなければならなくなりました。王はダニエルに同情的でした。この王に信仰があったとは思えませんが、ダニエルの神に託したような言い方をしたと記録されています。
 
人間の王とて、自ら認めた法に対しては、その法の下に置かれている様子が見てとれます。人が作った法に、その人は支配されるのです。王は寝食をとるゆとりもなくしました。ヨブの友にしろ、心情的にはいたたまれないのです。夜明けに急いで訪ねた王の心は、如何ばかりであったことでしょう。常識的に考えてダニエルはもう死んでいる。しかし神に願いました。
 
イエスの復活の朝に墓を訪ねた女たちの心境と比較したいものです。石の封印など、この場面と重ねられるようなイメージがあるのではないかと思います。福音書記者たるもの、ダニエル書は必ず知っていたわけですから、ここでの描写を参考にしたか、または少なくとも無意識のうちにこの場面の記憶が影響して、福音書を記したとは考えられないでしょうか。
 
王は恐る恐る問います。もう生きた人間のいない洞窟の中へ。すると、ダニエルから返答がありました。獅子は何の危害も与えませんでした。吠え猛る獅子は新約聖書で悪魔に比せられています。悪魔がキリストに何の仕業ができましょう。キリストは何の罪も犯さなかったのですから。ダニエルもここでは冤罪でした。象徴的ですがそのように受け止めてみます。
 
ダニエルを陥れようとした者たちへの厳罰は、あまりにも濃い復讐で、妻子までも獅子の餌になったという、おぞましいものでした。キリストを十字架につけた人々、殊にユダヤ人への憎しみは、このような心理がパラレルに働いた可能性も否めません。福音書や書簡を書いた人もダニエル書を知り尽くしていたのです。そしてその後の歴史上の教会も。
 
私たちも獅子の穴にいるようなものだとしてみましょう。ダニエルのように立ち回れたでしょうか。現実には害を受けるでしょう。しかし、死のダメージは受けません。たとえ殺されても、第二の死には及びません。教会学校でおなじみのダニエル物語ですが、軽く扱ってはなりません。王が永遠に生きるように、との賛辞を、イエスがむしろ私たちに向けているかもしれないのです。

Takapan
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